言葉の限界と「真実」を見る力
しもん氏は、動画の冒頭で「すべての苦しみから抜け出すためには、意識の目覚めが必要です」と語っている。その出発点として取り上げたのが「言葉の限界」である。人は対象に名前をつけた瞬間、理解したと錯覚してしまうが、それは本質を見失う行為だと説明している。
しもん氏によれば、私たちは何かを「犬」「花」「椅子」などと呼ぶことで、その存在を知った気になってしまう。しかし、言葉が指し示すのは対象のごく表面的な側面にすぎず、言葉を介して世界を見る限り、真実の姿は決して見えないと強調している。
ゴッホの椅子が示す「本質を見る」感性
しもん氏は、フィンセント・ファン・ゴッホの例を挙げながら、言葉を超えて存在を感じ取ることの重要性を説明している。ゴッホは古い椅子を「ただの椅子」とは見なさず、その存在の奥にある生命力や静けさを感じ取ろうとした。多くの人が通り過ぎるものに足を止め、深く観察する姿勢こそ、言葉の外にある真実への入り口だと述べている。
「ラベルを外す」と世界が新しく見える
しもん氏は、言葉によるラベルづけをやめることで、人生に深さと新鮮さが戻ってくると語っている。世界を「初めて見るかのように」感じられるようになるだけでなく、その変化は自己認識にも及ぶ。自分に貼り付けた「仕事ができる」「優しい」「自由だ」といった言葉をいったん外すことで、人は「ありのままの自分」を初めて体験できると説明している。
「私はある」という存在への回帰
しもん氏が最も強調するのは、思考や言葉を離れた「私はある(I am)」という感覚である。 人は「私は〇〇な人間だ」と定義するたびに、自分を外部の概念と同一化してしまう。だが、それらは後から付け足したものであり、本質的な自分ではない。 「ただ存在している私」に戻ることで、思考に支配された浅い意識から解放され、生命そのものとしての自分を感じられると説明している。
言葉では語れない自分の深さ
しもん氏は、人の本質は「頭が良い」「お金を持っている」などの言葉で語れるような単純なものではないと語っている。そうしたラベルで自分を定義しても、どこか満たされないのは、言葉が人間存在の深さを包みきれないからである。 思考を手放し、言葉を超えた領域で自分の存在を感じること――それが『ニュー・アース』が説く「意識の目覚め」であり、しもん氏が本章で最も伝えたいメッセージである。
頭の中のおしゃべりと気づきの重要性
しもん氏は、エックハルト・トールの教えの中で特に重要な要素として「頭の中のおしゃべり」に注目している。多くの人は、日常的に絶え間なく思考を繰り返しており、それを自分の意識だと信じ込んでいる。しかし実際には、その思考の大部分は自動的に発生しており、自分の意志で操っているわけではないと語っている。
しもん氏によれば、私たちはしばしば統合失調症の人が独り言を話す様子を見て「異常だ」と感じるが、頭の中で同じように絶えず独り言を続けている自分たちの状態にも気づいていない。声に出していないだけで、心の中では同じように「文句」「不安」「後悔」「比較」といった思考が延々と流れ続けていると指摘している。
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思考に支配された日常
しもん氏は、人が「考えている」と思っている時間の多くは、実際には思考に支配されている時間だと説明する。頭の中では一日中、自動思考が再生されており、その内容は過去への後悔や未来への不安などがほとんどである。この状態では、現在に意識を向けることができず、苦しみや焦りが増大していくと述べている。
多くの人は、自分が自分の思考をコントロールしていると信じているが、実際には思考に振り回されている。しもん氏は、この無自覚な思考の暴走こそが、トールの言う「エゴの働き」であり、人が苦しみから抜け出せない最大の原因であると解説している。
気づくことが「目覚め」の始まり
思考を無理に止めようとする必要はないと、しもん氏は強調する。重要なのは、頭の中で何かを考えている自分に「気づく」ことだけである。「今、自分は不安を考えているな」「怒りが浮かんでいるな」と気づいた瞬間、思考と自分の間に距離が生まれる。そのわずかな隙間こそが、トールの言う「気づき」であり、意識の目覚めの入り口になるという。
しもん氏は、この状態を「第三者の視点で自分を観察している感覚」と表現している。頭の中で思考が動いていることを、まるで映画の観客のように静かに眺める。そのとき、人は初めて思考の外側に立ち、自分自身をより深い意識の層から見つめることができる。
エゴを笑えるようになる段階
しもん氏は、頭の中のおしゃべりに気づく回数が増えるほど、思考と自分を切り離して見る力が育つと語っている。やがて、「また自分は考えすぎているな」「この思考は滑稽だな」と笑えるようになっていく。この「笑える」という軽やかさこそ、エゴから自由になる第一歩であると説明している。
気づくことを重ねるうちに、人は「思考も感情も自分ではない」と理解し始める。頭の中で延々としゃべり続ける声は、真の自分ではなく、ただの思考の習慣にすぎない。その気づきが深まるほど、思考の騒がしさに巻き込まれなくなり、静かな内面の意識が現れてくる。しもん氏は、これを「悟りの入り口」と表現している。
エゴの正体
しもん氏は、エックハルト・トールが示す「エゴ」の概念を、自分自身の言葉で整理しながら解説している。エゴとは、自分の存在を外部のものと同一化することで生まれる「偽りの自己意識」であると説明する。
人は「私の家」「私の車」「私の服」といった言葉を使うとき、それらの所有物に自己の一部を投影している。しもん氏は、「エゴとは、物との結びつきを通じて自分のアイデンティティを強化しようとする心の働き」であると述べている。
物に宿る「私」という錯覚
しもん氏は、エゴの仕組みを「同一化」という言葉で説明する。人は、所有物や地位、肩書き、外見などと自分を重ね合わせ、それらを失えば自分も小さくなるように感じてしまう。この「外部のものと自分を一体化する感覚」こそが、エゴの生まれる根本的な構造だと語っている。
たとえば、高価なブランド品を身につけるとき、人は単に物を買っているのではなく、「そのブランドを持つ自分」というイメージを買っているのだという。ロレックスやシャネルなどのブランドは、他者との差別化や優越感を得る手段であり、「私は特別だ」と感じたい心が根底にあると指摘している。
「欠けている自分」を埋めようとする心
しもん氏は、エゴの根底には「自分は何かが足りない」という欠乏感があると語っている。その欠けを埋めるために、人は外部のものを集めようとする。しかし、どれだけ所有しても満たされることはなく、より多くを求め続ける。しもん氏は、「この永遠の『もっともっと』という欲求こそ、エゴの正体そのものだ」と解説している。
この構造は、個人の問題にとどまらず、現代の消費社会全体を支える原動力にもなっていると述べている。エゴが欠けを感じるかぎり、人は物を求め続け、社会は競争と消費を繰り返す。しもん氏は、この連鎖を「満たされない心が作り出す幻想」と表現している。
エゴがつくり出す執着と苦しみ
しもん氏は、エゴが強まると人は執着を抱くようになると説明している。所有物や地位、人間関係などが「自分そのもの」と感じられるため、それを失うことに強い恐怖を覚える。たとえば、車や肩書きを失うと「自分の価値が下がった」と感じるのは、エゴが自分をそれらと同一化しているからだと語っている。
エゴの罠は、「外側のものが自分を証明してくれる」という幻想を信じ込ませる点にある。しかし、実際の自分はそれらがなくても損なわれない。しもん氏は、「物を失うときに苦しむのは、失われるのが自分ではなく、エゴのつくり出した幻だからだ」と説明している。
「何者でもない私」が本当の自分
しもん氏は、トールの教えを引用しながら、「本当の自分は、何かを持っている私でも、何かができる私でもない」と語っている。 多くの人は「特別な自分」になろうと努力するが、それはエゴが作り出す幻想にすぎない。外部のラベルをすべて外したときに残る「何者でもない私」こそが、本来の自分であり、静けさと安心がそこにあると説明している。
この理解に至ることで、人は「物を持つこと」や「他者より優れていること」に価値を置かなくなり、より深い充足を感じられるようになる。しもん氏は、この「エゴの構造」を理解することが、悟りへの道の中盤にあたる重要な段階だと述べている。
エゴを笑い飛ばす
しもん氏は、エゴを克服するために最も大切な姿勢として「笑い飛ばすこと」を挙げている。エゴを排除しようとするのではなく、気づいて観察し、軽やかに受け流すことが悟りへの道だと語っている。
地位や収入、恋人、貯金など、人が大切にしているものを失いそうになったとき、人は不安や恐怖を感じる。しかし、しもん氏は「そのときこそ、自分の本質を思い出す機会になる」と述べる。外部のものが変化しても、本当の自分、つまり「存在としての私」は何も損なわれない。この事実に気づくことで、エゴの影響力は自然と弱まっていくと説明している。
「私はある」という感覚への回帰
しもん氏は、エゴを超えるためには「考える」のではなく「感じる」ことが大切だと強調している。 人は「私はできる」「私は優れている」などの言葉を使って自分を定義しがちだが、それは思考でつくられたエゴの声に過ぎない。思考から一歩離れ、「私はある」という存在の感覚に意識を戻すことで、本当の自分を再び感じられると語っている。
この「私はある」という静かな気づきの状態では、失うことへの恐れが薄れていく。仕事を失っても、恋人が離れても、自分の存在は何も変わらないと理解できる。その瞬間、人は外部の条件に左右されない確かな安心感を得ることができる。
死が教える「所有の無意味さ」
しもん氏は、死を前にした人間が気づく真理として「所有の無意味さ」を挙げている。どんなに多くのものを持っていても、死の瞬間には何ひとつ持っていくことができない。 この気づきが示すのは、物質的な所有や社会的地位が本当の自分と何の関係もないという事実である。
人は生きているあいだ、外部に自分の価値を求め続けるが、探しているものは常に自分の内側にあった。 しもん氏は、「探していたものは最初から自分の目の前にあった」と気づく瞬間に、人は深い安堵を感じると語っている。
執着の正体と「所有の愛」
しもん氏は、恋人や大切な人への執着もまたエゴの表れだと説明している。 「相手を失いたくない」と強く思うとき、人は相手を「自分のもの」として所有しようとしている。 それは相手そのものを大切にしているのではなく、「私の恋人」というアイデンティティを守ろうとしているにすぎない。
この所有の意識が薄れるとき、人は初めて本当の意味で他者を愛せるようになる。 失うことを恐れない愛、執着のない関係――それこそがエゴを超えた愛の形だとしもん氏は語っている。
エゴを観察し、笑う
エゴに気づくようになると、「またエゴが動いているな」と思える瞬間が増えていく。 しもん氏は、このときに深刻にならず、むしろ「自分のエゴが面白いことをやっている」と笑える感覚を持つことが大切だと述べている。
「エゴを発見しても、落ち込まずに笑いましょう」と語るしもん氏は、気づきとユーモアが悟りへの鍵だと強調する。 エゴを笑い飛ばせるようになると、怒りや悲しみといった感情さえも、どこか滑稽に見えてくる。 「また俺のエゴちゃんが暴れてるな」と軽く笑えるとき、人はすでにエゴの外側に立っている。
エゴは消すものではなく、観察して理解するもの。 しもん氏は、「エゴは自分ではないと気づくだけでいい」と繰り返し語り、最後に「エゴを笑えるようになったとき、そこに本当の自由がある」と締めくくっている。
出典
本記事は、YouTube番組「『エゴ』の正体に気づき『悟り』を開く! 『ニュー・アース エックハルト・トール/著』の本解説。その①」の内容をもとに要約しています。
読後のひと考察──事実と背景から見えてくるもの
本稿で扱う主題は、「言葉の限界」「思考からの距離」「エゴの解消(非同一化)」「『私は在る』という存在感」という一連のスピリチュアル系の命題です。これらは内面の体験を重視する立場に根ざし、一定の示唆を与えますが、同時に哲学・認知科学・臨床心理学の観点から検証すべき前提や、概念上の混同も見受けられます。本稿では、一次・査読済みの研究と信頼性の高い学術リファレンスに基づき、実証可能な範囲でファクトチェックと補正を行います。結論を先取りすれば、「言葉」「思考」「自我」は敵ではなく、適切な位置づけと運用が問われる道具である、という姿勢が実践的であると考えられます。
言葉と真実:名付けの限界は事実か、どこまでか
「名付けが本質を覆い隠す」という直観は、確かに哲学史や東洋思想に繰り返し現れるモチーフです。分析哲学の流れでは、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』と後期の議論で「世界・思考・言語の限界」をめぐる考察を展開し、言語化の射程に注意を促しました。ここから導かれる妥当な中間結論は、言語には限界があるが、それ自体が無意味ではなく、むしろ世界理解の枠を形成するということです。実際、認知科学では「言語が思考をプログラムする(枠づける)」という影響の実証が多数報告されています。言語は感覚・運動表象と結びつき、概念操作の効率を高め、注意配分を再編成することがあります。ゆえに「名付け=本質喪失」という単線的図式ではなく、「名付け=一側面の強調+別側面の潜在化」という二面的作用として捉えるのが、現時点のエビデンスに整合的です。言葉を全否定するのではなく、比喩や多義性、学際的語彙を活用して複数の表象を往復することが、限界の内側で表現可能性を広げる現実的な方法と考えられます。
思考/内的対話と“気づき”:効果と誤解の分水嶺
「頭の中のおしゃべり」を観察し、同一化を弱める実践(メタ認知・脱同一化)は、臨床研究でも一定の効果が示されています。系統的レビューでは、マインドフルネスを含む瞑想プログラムが、不安・抑うつ・慢性疼痛などの症状に小〜中等度の改善をもたらすと報告されました。一方で、その効果は万能でも劇的でもなく、アウトカムや介入の質によって差があること、研究デザイン上の限界(測定の不統一、盲検化の困難、出版バイアスなど)も指摘されています。加えて、「思考を観察する=思考を止める」ではありません。実践的にも理論的にも重要なのは、思考活動の生起を許容しつつ、それと自己を混同しない“立ち位置の変更”(脱同一化)です。思考そのものを否定・抑圧しようとすると、問題解決・計画・創造といった適応的機能まで損なうリスクがあり、臨床的には推奨されません。従って、ファクトとして支持されるのは「気づき=思考停止」ではなく、「気づき=メタ認知の強化」という整理です。
エゴとアイデンティティ:“手放す”の正確な意味
「エゴを手放す」という表現は、しばしば二つの異なる領域概念が混同されます。第一は臨床的な「自我喪失/解体」(病理・薬理・急性ストレス下での自己連続感の破綻)で、第二は宗教・哲学的文脈の「エゴとの過度な同一化の相対化」(価値づけ・所有・役割への執着の緩和)です。前者は機能低下の兆候になり得ますが、後者は適応的再統合のプロセスとして意義づけられます。近年の神経科学・心理測定では、主観的な「エゴの薄れ」を測る尺度が開発・検証され、現象の多様性と状況依存性が示されています。これらの知見は、「自我を消す」ことを目的化するのではなく、自己感覚の柔軟性を高める方向が現実的であることを示唆します。また、スピリチュアル実践に伴う「霊性ナルシシズム(霊的優越感)」の可能性も、社会心理学の実証研究で観察されています。すなわち、「エゴから自由になったはずの自分」を誇示することで、別種の自己優越に再同一化してしまう逆説です。従って、推奨されるのは、エゴの全否定ではなく、機能としての自我を保ちながら、同一化の硬直を和らげる統合的アプローチです。
概念の仕分け:誤読を避けるために
実務的な執筆・教育・臨床の場で混線しやすいポイントを整理します。第一に、「思考の停止」と「思考への同一化の解放」は異なる概念です。前者は一時的状態であり、後者は態度・スキルです。第二に、「エゴの手放し」は「臨床的自我喪失」と同一ではありません。第三に、言語批判は言語無用論を意味しません。言語は思考を制約し得る一方、思考を拡張する枠組みでもあります。これらの仕分けを明確にすれば、スピリチュアルな洞察は、認知科学や臨床の知見と矛盾せずに運用できます。
実践的含意:敵ではなく道具としての言葉・思考・自我
最新のエビデンスをふまえると、実践で有効なのは「捨てる」より「調整する」態度です。言葉は単線化の危険を孕みますが、比喩と多層表現で補える。思考は暴走もすれば創造もするが、メタ認知でハンドルできる。自我は執着の温床にもなるが、役割統合と責任の基盤でもある。スピリチュアルな洞察は、これら三者の微調整に資する“注意の技法”として位置づけると、過度な教義化や誤用(自己否定・機能低下・優越感の温存)を避けやすくなります。
結び:検証可能性に開かれた探求へ
内面の経験は個別で豊かですが、公共的な議論に載せるには検証可能性への配慮が不可欠です。本稿のファクトチェックが示すのは、スピリチュアルな命題の多くが、用語の厳密化と領域の仕分けを経ることで、学術知見と接続しうるという点です。今後も、主観と実証、語りと測定を行き来しながら、言葉・思考・自我をどう扱うかの実践知を厚くしていくことが求められます。どの程度の距離感をもって三者を運用するのか――その最適点は、個々の状況と目的に応じて探っていく必要があると考えられます。