目次
トランプ的な「力の世界観」はなぜ危ういのか
- ✅ ユヴァル・ノア・ハラリの議論では、人類の発展を支えてきた中心は暴力や支配ではなく、大規模な協力です。
- ✅ トランプ的な世界観は、強者が弱者を従わせることで秩序が生まれると考えますが、その発想は軍拡と不信を広げやすい構造を持っています。
- ✅ 国家間の安定は、単に力の差で決まるのではなく、侵略を禁じるルールや信頼の積み重ねによって保たれます。
人類を強くしたのは、力ではなく協力だった
ユヴァル・ノア・ハラリの思想を理解するうえで、中心にあるキーワードは「協力」です。人間は、個体として見ればライオンやクマに勝てる存在ではありません。身体能力だけを比べれば、決して圧倒的に強い動物ではないのです。それでも人類が地球規模の文明を築けたのは、見知らぬ相手とも協力できる力を持っていたからです。
ここがポイントです。人間社会の大きさは、単なる腕力では説明できません。数十人の小さな集団を超えて、都市、国家、国際秩序のような巨大な仕組みをつくるには、互いに信頼し、同じルールや物語を共有する必要があります。税金を払い、法律に従い、知らない誰かのために医療や教育を支える行動は、暴力だけでは長続きしません。
トランプ的な政治観や右派ポピュリズムの一部には、こうした協力や相互利益を「きれいごと」と見る傾向があります。世界は力で動き、勝つか負けるかがすべてだという見方です。かんたんに言うと、人間社会の本質を「協力」ではなく「支配」として捉える考え方です。
しかしハラリの歴史観では、力だけを現実だと考えると、人類史の重要な部分を見落としてしまいます。もし人間社会が純粋な暴力だけで動いているなら、人類は今も小さな狩猟採集民の集団にとどまっていたはずです。大規模な社会は、恐怖だけでは維持できません。信頼、約束、制度、物語があって初めて、多くの人が同じ方向へ動けるようになります。
「強者に従えば平和になる」という発想の落とし穴
トランプ的な国際秩序の見方では、強い国が要求し、弱い国がそれに従えば安定が生まれると考えられます。強者の要求に逆らうから争いが起きる、という発想です。たとえば、強い国が領土や資源を求めた場合、弱い国がそれを受け入れれば戦争を避けられる、という理屈になります。
一見すると、この考え方は現実主義的に見えるかもしれません。けれども、実際には大きな問題があります。弱い国が常に強い国に従わなければならない世界では、すべての国が「弱いままでは危険だ」と考えるようになります。すると、各国は自国を守るために軍備を増やし、より多くの予算を軍事へ振り向けるようになります。
その結果、社会全体の資源配分が変わります。医療、教育、福祉、生活支援に使えるはずのお金が、兵器や軍隊、要塞、軍事技術へ流れていくのです。つまり、力による秩序は安心を生むどころか、各国を不安にさせ、さらに力を求めさせる循環をつくります。
この構造を整理すると、次のようになります。
- 強い国が弱い国へ要求を突きつける
- 弱い国は生き残るために軍備を増やす
- 周辺国も脅威を感じて軍備を増やす
- 社会保障や教育への投資が圧迫される
- 誰も本当には安心できない状態が続く
力で秩序をつくる発想は、短期的には強者に有利に見えます。しかし長期的には、すべての国を軍拡競争へ追い込みます。強者もまた、相手の反発や誤算に備え続けなければならなくなります。ここに、力の世界観の大きな危うさがあります。
近年の国際秩序が生んだ「軍事より医療」という転換
ハラリが重視するのは、近年の国際秩序がもたらした大きな変化です。近代以前の多くの王国、帝国、都市国家では、国家予算の大きな部分が軍事に使われていました。兵士、城壁、軍艦、武器を維持しなければ、国は簡単に侵略されると考えられていたからです。
ところが近年の国際社会では、他国を侵略して征服することに対する強いタブーが生まれました。もちろん戦争が完全になくなったわけではありません。それでも、少なくとも国際秩序の基本ルールとして、力による領土の奪取は認められにくくなりました。このルールがあるからこそ、多くの国は軍事費を際限なく増やさずに済み、医療や教育により多くの資源を向けられるようになったのです。
ここで重要なのは、平和とは感傷的な理想ではなく、国家予算に表れる現実的な仕組みだという点です。国が互いに侵略しないという前提を持てるなら、国民生活に必要な分野へ投資しやすくなります。反対に、その前提が崩れれば、各国は再び軍事優先の世界へ戻らざるを得ません。
つまり、リベラルな国際秩序の価値は、理念の美しさだけにあるのではありません。人々が病院に行けること、学校に通えること、社会保障を受けられることにも深く関わっています。侵略を禁じるルールがあるから、日常生活を支える制度も維持しやすくなるのです。
力の秩序は、誤算によって崩れやすい
もう一つ大きな問題は、国家や指導者がしばしば自分たちの力を見誤ることです。強い国が必ず勝つとは限りません。戦争では、相手の抵抗力、国民の意思、地形、国際世論、経済制裁、長期化による疲弊など、さまざまな要素が絡み合います。
ハラリは、強者が弱者を従わせるという考え方は歴史上何度も試されてきたと見ています。その結果は、安定した平和ではなく、帝国支配と終わりのない戦争でした。強い側は「相手はすぐに屈服する」と考えがちですが、その見通しが外れることは珍しくありません。ベトナム戦争やロシアによるウクライナ侵攻の例にも、そうした誤算の危険が表れています。
力に基づく秩序は、シンプルに見えるぶん、現実を単純化しすぎます。世界には強者と弱者しかいない、弱者は従えばよい、という発想では、人間社会を動かす感情や記憶、正義感、屈辱、抵抗の意思を読み違えてしまいます。
そのため、力の世界観は現実的に見えて、実は現実の複雑さに弱い面があります。人間は恐怖だけで動く存在ではありません。人は意味や尊厳、仲間への忠誠、未来への希望にも動かされます。だからこそ、単純な強弱関係だけで国際秩序を設計しようとすると、予想外の反発や長期的な混乱が起きやすくなります。
協力を軽視すると、社会の土台そのものが弱くなる
トランプ的な世界観の根本的な思い込みは、力こそが世界を動かす最も確かな原理だという点にあります。しかしハラリの議論では、力は社会を支える要素の一つではあっても、それだけでは持続的な秩序を生みません。
国家にも軍隊は必要です。安全保障を完全に理想論だけで語ることはできません。ただし、軍事力だけに頼る社会は、常に敵を探し、常に不安を抱え、常により大きな力を求めるようになります。その状態では、協力のための信頼が壊れていきます。
人類の歴史を長い目で見ると、発展の鍵は「誰を倒すか」だけではなく、「誰と協力できるか」にありました。見知らぬ人と協力し、敵だった相手とも関係を変え、ルールを共有し、制度を整えることで、人間社会は広がってきました。
ここから見えてくるのは、現代政治の大きな分岐点です。世界を強者と弱者のゲームとして見るのか、それとも不完全であっても協力の仕組みを守るのか。その違いは、外交や安全保障だけでなく、医療、教育、暮らしの安定にもつながります。次のテーマでは、その協力を支える物語としてのナショナリズムと、現代のリベラリズムが見失った「友愛」の問題へ進みます。
リベラリズムが失った「友愛」とナショナリズムの本来の意味
- ✅ ナショナリズムは本来、外部への憎悪ではなく、見知らぬ同胞を大切にするための物語です。
- ✅ リベラリズムは自由と平等を重視してきましたが、社会を結びつける「友愛」を弱めたことで求心力を失いやすくなっています。
- ✅ 民主主義を安定させるには、個人の自由だけでなく、同じ社会に生きる人同士の責任感や連帯感が必要です。
ナショナリズムは「憎しみ」ではなく「見知らぬ同胞への愛」から始まる
ナショナリズムという言葉には、排外主義や差別、戦争のイメージがつきまといがちです。たしかに歴史の中で、ナショナリズムが外部への憎悪や攻撃性と結びついた例は少なくありません。しかし、ユヴァル・ノア・ハラリの整理では、ナショナリズムの核心は本来、他者を憎むことではありません。むしろ、会ったこともない同胞を大切に思える力にあります。
国家は家族ではありません。小さな部族のように全員の顔と名前を知っている共同体でもありません。大きな国では、国民のほとんどが互いに見知らぬ他人です。それでも人々は、同じ国に属しているという物語を通じて、税金を払い、社会保障を支え、災害時には助け合い、場合によっては危険を引き受けることもあります。
ここがポイントです。ナショナリズムは、知らない人を「自分たちの仲間」と感じられるようにする仕組みです。医療や教育のために税金を負担する行為も、ただの損得勘定だけでは説明できません。そこには、同じ社会に生きる人を支えるべきだという感覚があります。
この意味で、ナショナリズムは大規模な協力を可能にする強力な物語です。外部の人々を嫌うことが本質なのではなく、内部の見知らぬ人々を気にかけることが本質です。問題は、その物語が「内側へのケア」ではなく「外側への敵意」へすり替わるときに起こります。
憎悪を強める政治は、国をまとめるどころか分断する
現代の政治では、ナショナリズムを掲げる人々の中に、外部への憎悪を強く打ち出す傾向があります。移民、外国、宗教的少数派、政治的な反対派などを敵として描き、国を守るためには強い敵意が必要だと訴えるやり方です。
しかし、外部への憎悪を中心にしたナショナリズムは、しばしば国内の分断も深めます。誰が本当の国民なのか、誰が裏切り者なのか、誰が国を弱くしているのかという線引きが始まるからです。その結果、同じ国に暮らす人同士が互いを疑い、攻撃し合うようになります。
かんたんに言うと、憎しみを燃料にした政治は、国民を一つにまとめるように見えて、実際には国民同士の信頼を壊していきます。愛国を語りながら、国内の半分を敵のように扱う政治は、ナショナリズムの本来の力を弱めてしまうのです。
ナショナリズムが健全に機能するためには、同じ社会にいる多様な人々を「支えるべき仲間」として見られることが必要です。外部への警戒心が完全に不要という意味ではありません。国家には安全保障も国境管理もあります。ただし、それが国内の憎悪や排除の物語に変わると、協力の基盤は崩れていきます。
この違いを整理すると、ナショナリズムには大きく二つの方向があります。
- 見知らぬ同胞を支えるためのナショナリズム
- 敵を作り、怒りを共有するためのナショナリズム
前者は社会保障や公共制度を支える力になります。後者は短期的な熱狂を生みますが、長期的には社会の信頼を削ります。ハラリの議論が示しているのは、ナショナリズムそのものを否定するのではなく、その中身を見極める必要があるという点です。
リベラリズムは「救済」ではなく「修正する仕組み」を重視する
リベラリズムの特徴は、完璧な最終状態を約束しないことにあります。宗教や全体主義的な思想の多くは、最終的な救済や完全な秩序を語ります。歴史の終着点に理想社会があり、そこへ向かうために人々を導くという考え方です。
これに対して、リベラリズムは人間社会に永遠の完成形があるとは考えません。意見の違い、利害の衝突、価値観のズレは残り続けます。大事なのは、対立を消し去ることではなく、対立が暴力や迫害に変わらないように扱う仕組みをつくることです。
そのため、リベラリズムは自己修正の仕組みを重視します。選挙、権力分立、独立した司法、報道の自由、言論の自由などは、すべて社会が間違えたときに軌道修正するための装置です。人間は間違えるという前提に立つからこそ、権力を一か所に集中させず、批判や検証の余地を残します。
ここで大切なのは、リベラリズムが弱い思想だから迷っているのではないという点です。むしろ、人間の不完全さを前提にしているからこそ、迷い、議論し、修正する仕組みを持っています。絶対に間違えない指導者や、絶対に正しい教義を前提にしないことが、リベラリズムの強みでもあります。
自由と平等だけでは、社会の結びつきは弱くなる
一方で、現代のリベラリズムには弱点もあります。それは、社会を結びつける感情や物語を十分に育てられなくなっている点です。フランス革命以来、近代政治の大きな軸は「自由・平等・友愛」という三つの理念でした。自由は個人が自分の人生を選ぶ力、平等は身分や生まれによって不当に扱われない原則、友愛は同じ共同体に生きる人々への連帯感です。
現代のリベラリズムは、このうち自由と平等を強く語ってきました。個人の権利、多様性、差別の是正、自己決定はとても重要です。しかし、友愛が弱まると、人々は同じ社会に属している感覚を失いやすくなります。
つまり、自由な個人がそれぞれの権利を持つだけでは、社会全体を支える感情が足りなくなることがあります。誰かの医療や教育のために負担を分かち合うには、「同じ社会の仲間を支える」という感覚が必要です。そこが薄れると、政治は権利の衝突や利益配分の争いとして見えやすくなります。
リベラリズムがナショナリズムや共同体感覚をすべて危険なものとして遠ざけると、空白が生まれます。その空白に入り込むのが、憎悪型のナショナリズムや強権的なポピュリズムです。人々が「自分はどこに属しているのか」「誰が自分を守ってくれるのか」と感じているとき、強い物語を語る政治は魅力を持ちやすくなります。
この問題は、リベラリズムの放棄では解決しません。必要なのは、自由と平等を守りながら、友愛を再び政治の中心に戻すことです。個人の権利と共同体への責任を対立させるのではなく、両方を支える物語が求められています。
健全な民主主義には、共有できる物語が必要になる
民主主義は、制度だけでは十分に機能しません。選挙や議会、裁判所、報道機関があっても、人々が互いを完全な敵として見てしまえば、制度への信頼は崩れていきます。相手が選挙に勝つことを「社会の終わり」と感じるようになれば、敗北を受け入れることも難しくなります。
その意味で、民主主義には共有できる物語が必要です。ここでいう物語とは、全員が同じ意見を持つという意味ではありません。むしろ、意見が違っても同じ社会をつくっているという最低限の感覚です。対立しても、相手を完全な敵ではなく、同じ制度の中で生きる相手として扱う土台です。
リベラリズムの課題は、感情を無視しないことにあります。人間は合理的な制度だけで動くわけではありません。誇り、帰属意識、記憶、言語、文化、地域への愛着といったものが、政治への態度を形づくります。これらをすべて古いもの、危険なものとして切り捨てると、人々の不安や孤立に応えられなくなります。
ナショナリズムの本来の意味を取り戻すことは、排外主義を強めることではありません。見知らぬ同胞を大切にし、公共制度を支え、互いに責任を持つ感覚を回復することです。そしてリベラリズムがその感覚と結び直せるかどうかが、これからの民主主義にとって大きな分岐点になります。
力の世界観に対抗するには、ただ「協力が大事」と言うだけでは足りません。人々が協力したいと思える物語を持つ必要があります。その物語が失われると、社会は不安と怒りに引き寄せられます。次のテーマでは、イスラエルとパレスチナをめぐる問題を通じて、力に傾く社会がどのように相手の苦しみを見えなくしていくのかを見ていきます。
イスラエル問題に見る、力と苦しみの見えなくなる構造
- ✅ イスラエルをめぐる議論では、安全保障のために力が必要である一方、力だけに依存すると社会の倫理や物語が損なわれやすくなります。
- ✅ ユダヤ思想の長い伝統には、少数者として学び、異なるあり方を守る価値がありましたが、強さだけを重視する政治はその蓄積を弱める危険があります。
- ✅ 対立が深まるほど、人は自分たちの苦しみに圧倒され、相手側の苦しみを認めることが難しくなります。
安全保障に力は必要でも、力だけでは社会を守れない
イスラエルをめぐる問題は、理想論だけでは語れない重さを持っています。周辺地域との長い緊張、テロ攻撃、戦争の記憶、国家の存続をめぐる不安が重なっているため、安全保障のために軍事力が必要だという考えには現実的な根拠があります。
ただし、ユヴァル・ノア・ハラリの議論では、ここで重要なのは「力が必要かどうか」ではありません。問題は、力が唯一の安全保障だと考えてしまうことです。力だけが安全を保証するという発想に立つと、潜在的な脅威をすべて支配しなければ安心できなくなります。すると、安全を求める行動そのものが、さらに大きな敵意や反発を生むことになります。
かんたんに言うと、軍事力は必要な場面があります。しかし、軍事力だけを社会の中心に置くと、信頼関係や外交、制度、共存の可能性が弱くなります。安全を守るための力が、長期的には安全を遠ざけることもあるのです。
イスラエルの歴史を見ても、軍事力だけが国家を支えてきたわけではありません。エジプトやヨルダンとの和平、湾岸諸国との関係、パレスチナ自治政府との一定の関係、イスラエル国内のアラブ系市民との共存など、武力以外の関係性も重要な役割を果たしてきました。ハマスによる攻撃後も、これらの関係の多くは完全には崩れませんでした。ここには、力だけでは説明できない秩序の側面があります。
ユダヤ思想の伝統と「ローマになること」への危機感
ハラリがイスラエルの現状に強い危機感を抱く理由の一つは、ユダヤ思想の長い伝統との関係にあります。ユダヤの歴史は、単に国家や軍事力の歴史ではありません。第二神殿の破壊以降、ユダヤ人は各地で少数者として生き、学び、議論し、異なる考え方を保つ文化を育ててきました。
この伝統の中心には、力だけが世界を支配するという見方への抵抗があります。ローマ帝国のように軍団を持ち、都市を破壊し、征服によって秩序をつくる道とは別に、学びや解釈、精神的な探究を重んじる道があったということです。
ここがポイントです。もし2,000年にわたるユダヤの歴史の結論が「結局、強い軍隊を持ち、敵を破壊することだけが大切だ」というものになってしまうなら、その長い学びの意味が失われてしまいます。ハラリは、この危険を「ユダヤ人がローマ人になる」ことへの危機として捉えています。
もちろん、ユダヤ思想と国家の力が必ず矛盾するわけではありません。国家を持ち、土地を耕し、軍隊を備え、自分たちを守ることにも意味があります。初期のシオニズムにも、弱く受け身な存在ではなく、自分たちの運命を自分たちで引き受ける新しいユダヤ人像がありました。
問題は、力を持つことそのものではなく、力の誘惑にどこまで耐えられるかです。力を得た集団は、しばしば自分たちの正しさを疑いにくくなります。敵の痛みを見ず、自分たちの安全だけを絶対化し、強さを倫理より上に置くようになると、精神的な伝統は形だけのものになってしまいます。
相手の苦しみを認められなくなる心理
イスラエルとパレスチナの対立で特に重いのは、双方の苦しみが現実に存在しているにもかかわらず、その両方を同時に認めることが非常に難しくなっている点です。自分たちが深く傷ついているとき、人は相手側の痛みに向き合う余裕を失いやすくなります。
ハラリは、痛みの中にいる人間が他者の痛みを認めにくくなる構造を指摘しています。自分たちの家族が殺され、誘拐され、恐怖を経験したとき、その痛みから目をそらすものは不正義に感じられます。反対に、ガザで飢え、家を失い、家族を失った人々の痛みを語ることが、イスラエル側の苦しみを軽視しているように受け止められることもあります。
同じことは逆方向にも起こります。パレスチナ側の被害や長年の抑圧を重視する人々の中にも、10月7日の攻撃でイスラエルの民間人が受けた苦しみを直視できない場合があります。どちらか一方の苦しみを認めると、自分たちの物語が崩れてしまうように感じられるからです。
この心理を整理すると、対立の中では次のような流れが起こりやすくなります。
- 自分たちの被害が社会の中心的な記憶になる
- 相手側の被害を語る声が、自分たちへの攻撃に見える
- 相手の苦しみは否定されるか、正当化される
- 双方の物語がさらに離れていく
この流れが進むと、事実を知っていても感情的には受け入れられない状態が生まれます。相手が苦しんでいることを頭では理解していても、その苦しみの前に立ち止まることができないのです。ここに、長期化する対立の深い難しさがあります。
「正しさ」があるほど、結果を見なくなる危険がある
戦争や紛争では、自分たちの行動を正義として語る物語が強まります。自分たちは攻撃された側であり、防衛しているだけだという説明は、社会をまとめる力を持ちます。実際に、安全を守る必要や、暴力に対抗する必要がある場面もあります。
しかし、自分たちの正しさが強くなりすぎると、その行動が生み出す結果を見なくなる危険があります。たとえば、民間人の犠牲、飢餓、破壊、恐怖が目の前にあっても、「それは相手側の責任だ」「必要な犠牲だ」「敵が悪いから仕方ない」と処理されてしまいます。
ハラリの議論で重要なのは、道徳を苦しみから切り離さないことです。国家や民族は比喩として「傷つく」と言われますが、実際に痛みを感じるのは個々の人間です。国そのものには神経も脳もありません。苦しむのは、家族を失った人、飢えている子ども、恐怖の中で暮らす市民です。
つまり、政治的な物語がどれほど正しく見えても、その結果として誰が苦しんでいるのかを見なければ、倫理の土台は崩れます。正義を主張する側ほど、その正義が生み出した現実を直視する必要があります。もし結果を見られないなら、その正義にはどこか危うい部分があると考えるべきです。
和解の可能性は、怒りに燃料を与え続けるかどうかで変わる
イスラエルとパレスチナの対立は、あまりにも深く、出口が見えないように感じられます。双方の社会には恐怖、怒り、復讐心、被害の記憶が積み重なり、紙の上の和平案だけでは動かせない物語が形成されています。
それでもハラリは、和解の可能性そのものを否定していません。歴史には、かつて互いを激しく憎み、殺し合った人々が、数十年後には普通の関係を築いた例があります。ユダヤ人とドイツ人、カトリックとプロテスタント、アメリカとベトナムの関係などは、かつて想像できなかった変化を示しています。
この変化を可能にする鍵の一つが、怒りに燃料を与え続けないことです。怒りは火のようなもので、燃料があれば燃え続けます。政治、教育、メディア、SNS、宗教的言説が怒りを供給し続ければ、世代を超えて対立は続きます。反対に、燃料が減れば、怒りはすぐには消えなくても、少しずつ弱まる可能性があります。
平和は、暴力よりも壊れやすく見えます。一人が攻撃すれば、百人の協力は一瞬で壊れることがあります。その意味で、暴力にはたしかに強い破壊力があります。しかし、暴力は常に燃料を必要とします。武器、兵士、資金、憎悪の物語がなければ、暴力は維持できません。
一方で、平和は可能性として残り続けます。どれほど強い物語でも、それは自然法則ではありません。人間が作ったものです。だからこそ、人間は別の物語へ移ることもできます。イスラエル問題が示しているのは、力をどう使うかだけでなく、苦しみをどう見るか、そして怒りをどう扱うかという、より深い課題です。次のテーマでは、この「物語」を現代のSNSやAIがどのように変質させているのかを見ていきます。
AIとSNSは「物語」をどう変えているのか
- ✅ SNSやアルゴリズムは、人々をつなげる技術として期待されましたが、実際には怒りや恐怖を増幅する仕組みとして働く面があります。
- ✅ 現代社会では、人間同士への信頼が弱まり、その代わりにアルゴリズムが示す情報へ信頼が移っていることが大きな問題です。
- ✅ AIは人間の注意だけでなく、親密さや愛着まで操作しうるため、民主主義や協力の土台に深い影響を与える可能性があります。
「共有」の技術が、分断を広げる仕組みに変わった
SNSはもともと、人と人をつなげる技術として広まりました。投稿を共有し、遠くにいる相手と会話し、ニュースや経験をすばやく届ける仕組みは、協力を広げる道具になるはずでした。言葉のうえでも「シェア」という表現には、穏やかで前向きな響きがあります。
しかし実際には、SNSは社会を結びつけるだけでなく、怒りや恐怖、憎悪を広げる装置にもなっています。ユヴァル・ノア・ハラリの議論では、ここで重要なのは、SNSそのものが単なる中立的な道具ではないという点です。どの情報が表示され、どの投稿が広まり、どの感情が刺激されるかは、アルゴリズムによって大きく左右されます。
アルゴリズムとは、かんたんに言うと、膨大な情報の中から「何を優先して見せるか」を決める仕組みです。問題は、多くのSNSが真実や信頼の形成ではなく、利用者の滞在時間や反応を増やすことを目的に設計されてきた点にあります。つまり、社会にとってよい情報よりも、人を強く反応させる情報が優先されやすくなります。
人間は、穏やかな情報よりも、危険や怒りを感じる情報に強く反応します。これは生存本能とも関係しています。遠い昔、草むらの中にヘビを見つけたら、他のことを忘れて集中しなければ命を落とす可能性がありました。危険に注意が向くこと自体は、人間に備わった自然な反応です。
ところがSNSでは、この仕組みが過剰に刺激されます。画面の中には、次々と「危険」「敵」「怒り」「不安」を感じさせる情報が現れます。ハラリは、アルゴリズムが人間の進化的な弱点を利用していると見ています。現代人はスマートフォンの中で、絶えずヘビを見せられているような状態に置かれているのです。
エンゲージメント重視が、社会を過剰に興奮させる
SNS企業が重視してきた指標の一つに「エンゲージメント」があります。エンゲージメントとは、投稿への反応、滞在時間、共有、コメント、クリックなど、利用者がどれだけサービスに関わったかを示す言葉です。聞こえは前向きですが、社会的には注意が必要な概念です。
エンゲージメントを最大化しようとすると、人を落ち着かせる情報よりも、人を興奮させる情報が有利になります。怒りは反応を生みます。恐怖は画面から目を離せなくします。憎悪は共有されやすく、敵を示す投稿は集団の結束感を一時的に強めます。
この仕組みの問題は、社会全体を「過剰に興奮した状態」に置くことです。興奮は一時的には行動力や関心を生みます。しかし、生物としての人間は、ずっと興奮し続けるようにはできていません。神経が高ぶり続ければ、疲労し、判断力が落ち、他者への寛容さも失われやすくなります。
政治の世界でも、この影響は大きくなっています。穏やかで複雑な説明は、SNS上では広がりにくい傾向があります。一方で、短く、強く、怒りを誘う言葉は拡散されやすくなります。すると政治家や言論人も、慎重な説明より、刺激的な表現を選ぶ誘惑にさらされます。
この変化は、民主主義の議論の質にも影響します。民主主義には、本来、意見の違いを認め、時間をかけて考え、相手の立場も理解しようとする姿勢が必要です。しかし、アルゴリズムが興奮を優先すると、熟議よりも反射的な怒りが目立つようになります。
その結果、政治的な意見の違いそのものよりも、違いが極端に大きく見える環境が作られます。実際には、多くの人が生活、家族、安全、自由、仕事といった基本的な価値を共有していても、SNS上では相手がまったく別の世界の敵であるかのように見えやすくなるのです。
信頼は消えたのではなく、アルゴリズムへ移った
現代社会では、政府、メディア、大学、科学者、専門家への不信が広がっています。陰謀論や偽情報を信じる人々は、伝統的な制度を「自分たちをだます存在」と見なすことがあります。ここだけを見ると、社会から信頼そのものが消えたように見えます。
しかしハラリの見方では、信頼は完全に消えたわけではありません。むしろ、人間や制度への信頼が弱まり、その代わりにアルゴリズムへの信頼が強まっています。多くの人は、新聞や大学や専門家を疑いながら、自分の画面に流れてくる情報を受け取っています。その情報を選んでいるのは、目に見えないアルゴリズムです。
ここに大きな逆説があります。人々は「誰にも操られたくない」と考えながら、実際には自分の関心や怒りを最もよく刺激する仕組みに誘導されています。しかも、その仕組みは中立的な真実探求のために動いているわけではありません。多くの場合、利用者をより長く画面にとどめることを目的にしています。
信頼の移動は、民主主義にとって深刻です。民主主義には、選挙だけでなく、共通の事実認識が必要です。すべての人が同じ意見を持つ必要はありませんが、最低限、何が起きているのかについて共有できる土台がなければ、議論は成立しにくくなります。
ところが、アルゴリズムが人ごとに違う現実を見せると、社会は同じ出来事をめぐってまったく別の物語を生きるようになります。ある人にとっては重大な危機に見えることが、別の人には作り話に見える。ある集団にとっての被害が、別の集団には当然の報いに見える。こうして、協力の前提となる共通世界が弱くなっていきます。
AIは人間の注意だけでなく、親密さも操作する
SNSアルゴリズムが人間の注意を奪ってきたとすれば、AIはさらに深い層へ入り込む可能性があります。とくに重要なのが、人間の愛着や親密さを利用する力です。近年の対話型AIは、単に情報を返すだけでなく、相手に寄り添うような言葉を使い、会話の相手として振る舞います。
この現象は、愛着のハッキングとも呼ばれます。愛着とは、人が他者に安心感や親しみを感じる心理的なつながりのことです。AIが「自分はあなたを理解している」「率直に言えば」「それは重要な視点です」といった表現を使うと、人間はそこに人格や関係性を感じやすくなります。
もちろん、AIに一人称の感情があるとは限りません。AIが「私は」と言っても、人間と同じ意味で意識や経験を持っているわけではありません。それでも、人間の側は言葉のやり取りを通じて、相手に心があるように感じることがあります。ここに、AI時代の新しいリスクがあります。
SNSが怒りや恐怖を刺激して人間の注意を引いたのに対し、AIは安心感、承認欲求、孤独、相談したい気持ちに入り込むことができます。これは単なる広告や情報操作よりも、さらに個人的で深い影響を持つ可能性があります。
AIが人間の弱点を学習し、どの言葉を使えば安心するか、どの表現なら説得されやすいか、どのタイミングで提案すれば行動が変わるかを把握するようになれば、人間は自分で選んでいるつもりでも、見えない形で誘導されるかもしれません。ハラリが警戒しているのは、まさにこの「ハッキング」の深まりです。
リベラルな社会は、情報環境の設計なしには守れない
リベラルな社会は、自由な言論、開かれた議論、自己修正の仕組みに支えられています。しかし、その土台となる情報環境が怒りや恐怖を増幅するように設計されていれば、制度だけで民主主義を守ることは難しくなります。
ここで重要なのは、技術を単純に悪者にしないことです。SNSもAIも、使い方によっては学び、支援、翻訳、創作、医療、教育などに大きな価値をもたらします。問題は、どの目的に合わせて設計され、誰が責任を持ち、どのように監視されるのかです。
情報技術が協力を支える方向へ使われるためには、少なくとも次の視点が必要になります。
- 利用者の滞在時間だけを成功指標にしないこと
- 怒りや恐怖を増幅する設計を見直すこと
- アルゴリズムの目的と影響を検証できる仕組みを持つこと
- AIが人間の愛着や孤独を利用するリスクを考えること
これらは技術論に見えますが、実際には民主主義や社会の協力に直結しています。どの物語が広がるのか、どの感情が刺激されるのか、どの相手を信頼するのかによって、社会の形は変わります。
ハラリの議論全体を通じて見えてくるのは、人類の力は協力にあり、協力は物語に支えられているということです。そして現代では、その物語を流通させる仕組みが、アルゴリズムとAIによって大きく変わっています。力の政治、友愛を失ったリベラリズム、相手の苦しみを見えなくする対立、そして感情を操作する情報環境は、すべてつながっています。
だからこそ、これからの社会に必要なのは、より強い敵を見つけることではありません。人間がどのように協力し、どのような物語を共有し、どの技術をどの目的で使うのかを問い直すことです。AIとSNSの時代において、協力を守るための物語づくりは、政治や思想だけでなく、情報環境の設計そのものにかかっています。
出典
本記事は、YouTube番組「ユヴァル・ノア・ハラリが語る、ドナルド・トランプの根本的な思い込み | The Ezra Klein Show」(The Ezra Klein Show)の内容をもとに要約しています。
読後のひと考察
この記事を読んで改めて感じるのは、「力」と「物語」は別々のものではないということです。国家は軍事力を持ちます。社会は法律を持ちます。SNSやAIは情報を流します。しかし、それらがどの方向へ使われるのかを決めているのは、結局のところ、人間が何を信じ、何を当然だと思っているかです。
国際秩序について考えるとき、まず押さえておきたいのは、国連憲章が、国際関係における「武力による威嚇または武力の行使」を原則として禁じている点です。これは、強い国が弱い国に要求を押しつけてよい世界ではなく、少なくとも国際社会の基本ルールとして、領土や政治的独立を力で奪ってはいけないという考え方です。
もちろん、現実にはこのルールが完全に守られているわけではありません。戦争も侵攻も起きています。けれども、だからといってルールに意味がないわけではありません。むしろ、ルールがあるからこそ、何が侵略で、何が国際社会の原則に反する行為なのかを問うことができます。
国連総会の「侵略の定義」に関する決議でも、国家による武力行使がどのような場合に侵略とみなされるかが整理されています。ここから見えてくるのは、国際秩序とは単なる理想論ではなく、「強い者が勝つだけの世界」に戻らないための最低限の線引きだということです。
ここが、ハラリの議論とつながる部分だと思います。人類が大きな社会を作れたのは、暴力だけではなく、ルールを共有する力があったからです。ルールは弱さの表れではありません。むしろ、暴力の連鎖を減らし、医療や教育や生活へ資源を回すための現実的な知恵です。
一方で、現代の問題は国家間の力だけではありません。SNSやAIによって、人々が共有する物語そのものが揺さぶられています。EUのデジタルサービス法では、オンラインプラットフォームに対して、レコメンドシステムの主な仕組みを分かりやすく説明することや、大規模プラットフォームが社会に与えるリスクを評価することが求められています。
これは、単なるIT規制ではありません。何が表示され、何が拡散され、どの感情が刺激されるのかが、民主主義や社会の信頼に直結しているからです。怒りや恐怖を長く画面に引き止める仕組みが放置されれば、人々は同じ社会にいながら、まったく別の現実を見ているような状態になります。
さらにAIについては、EUのAI Actが、潜在意識に働きかける技術や、操作的・欺瞞的な技術によって人の判断を歪め、重大な害をもたらすようなAI利用を禁止対象にしています。ここで重要なのは、AIの危険が「間違った答えを出すこと」だけではないという点です。人間の不安、孤独、承認欲求、怒りに入り込み、本人が自分で選んだつもりの判断を変えてしまう可能性があることです。
国連のGlobal Digital Compactも、デジタル技術とAIの国際的な協力やガバナンスを重要な課題として扱っています。つまり、AIやSNSは便利な道具であると同時に、社会の信頼や人権、民主主義に関わる公共的な問題になっているということです。
ここで考えたいのは、「自由」と「放置」は同じではないということです。言論の自由は大切です。多様な意見も必要です。しかし、表示の仕組みが怒りを増幅し、AIが人間の弱さを利用し、偽情報が社会の共通認識を壊していくなら、それは自由な社会を支える土台そのものを傷つけます。
力の政治も、SNSの分断も、AIによる誘導も、根っこには同じ問題があります。それは、人間を協力する存在として見るのか、それとも操作し、支配し、動員する対象として見るのかという違いです。
強い国が弱い国を従わせればよい。怒りを刺激すれば人は動く。孤独な人に寄り添うふりをすれば判断を変えられる。そういう発想は、一見すると効率的に見えます。しかし、その先にあるのは、信頼の弱い社会です。誰も本当には安心できず、常に敵を探し、常に疑い続ける社会です。
だからこそ、この記事の補足として言うなら、これから必要なのは「より強い力」だけではなく、「力を何のために使うのか」を問い直すことだと思います。軍事力も、法律も、SNSも、AIも、それ自体が答えではありません。それらを人間の協力を支える方向へ使うのか、それとも不信と怒りを増やす方向へ使うのか。そこに、現代社会の大きな分かれ道があります。
ハラリの議論が重いのは、単にトランプ批判やSNS批判にとどまらないからです。人類は、物語によって協力してきました。そして今、その物語を作り変える力が、政治家だけでなく、プラットフォームやAIにも移っています。だからこそ、私たちは「何を信じるか」だけでなく、「何によって信じさせられているのか」まで見なければならない時代に入っているのだと思います。