「人間とは何か」を問い直す企画と、人間らしさの入口となるエピソード
- ✅ 人間らしさとは、完璧さではなく「いじわるでない愚かさ」や不完全さがにじみ出る状態である。
- ✅ 海ロケの漁師の外れた天気予報や、元相方の部屋に残された大量の「もちラーメン」は、その人間らしさが最もよく表れた具体例として位置づけられています。
- ✅ 先輩芸人からの靴代の使い方をめぐる違いを通じて、言われた通りに動く生真面目さよりも、予定から少しずれてしまう行為の中に人間味が宿る。
- ✅ 「百の三 人間とは何か」という企画は、こうしたエピソードを百個挙げることで、人間理解の幅を意識的に広げる試みである。
このテーマでは、お笑い芸人であり小説家でもある又吉直樹氏が、「百の三 人間とは何か」という企画の中で提示する人間観の土台が語られています。又吉氏は、立派さや論理的な正しさよりも、どこか抜けていたり、不器用さがにじむ振る舞いにこそ人間らしさが表れると捉えています。その感覚を裏づけるものとして、ロケ現場や若手時代の相方との関係、先輩芸人とのやり取りなど、具体的なエピソードが順に紹介されています。
「かわいげのある愚かさ」としての人間像
又吉氏はまず、自分が魅力を感じる人間像を「いじわるではない愚かさ」がある存在として説明します。完璧さを目指して生きる人物像よりも、少し失敗したり、どこかずれていたりする様子に、親しみや温かさが生まれるという考え方です。文学作品を好んで読んできた経験も背景にあり、近代文学に描かれる情けなさや不器用さを、人間の本質の一部として見ています。
人について考えるとき、立派さや正しさに目が向きがちですが、実際に心を動かされるのは、少し抜けていたり、思わず笑ってしまうような部分だと感じています。うまくいっていない感じや、不器用さの中に、その人らしさが強くにじむ気がします。
この視点に立つと、単なる失敗や勘違いも、評価すべき人間性の一部として見直されます。合理的には「こうするべきだった」と言える場面であっても、現実に選ばれてしまう行動のほうに、その人の歴史や価値観が表れるという考え方です。
海ロケの漁師と、外れた天気予報が持つ味わい
その象徴的な例として、海でのロケ中に出会ったベテラン漁師のエピソードが語られます。長年、同じ海と空を見続けてきた漁師が、空模様を見て「この後は雨が来るから早く撤収した方がよい」とスタッフに告げます。その言葉を信じて一同は慌ただしく片づけを始め、移動を決めますが、結果的に雨は降りませんでした。
経験豊かな漁師さんが「もうすぐ雨が降る」と教えてくれて、全員で急いで撤収しました。ただ、結局最後まで雨が降らず、「あの撤収は何だったんやろう」と思いながらも、どこか漁師さんの顔を立てたい気持ちもありました。
撮影が終わる頃になると、スタッフの間で「さっき少しだけ降りましたよね」といった言葉が交わされ、誰も漁師を責めずに、経験の重みを守ろうとする空気が生まれます。予測が外れること自体は単純な事実ですが、その外れ方をどう扱うか、関係者がどのような言葉を選ぶかの中に、集団としての人間らしさが表れています。
予報が外れたことを責めるのではなく、「きっとずれてくれたんですね」といった言い方で、漁師さんの経験を否定しないようにしている様子が印象に残りました。事実だけを切り取れば外れたで終わりますが、その外れた出来事をどう包み直すかに、人間の優しさや可笑しさが出ると感じました。
元相方の「もちラーメン」と、深刻さと笑いの同居
別のエピソードとして、若手時代にコンビを組んでいた元相方の話が紹介されます。しばらく連絡がつかず、家にも戻っていないと聞いた又吉氏は、心配になって大家から鍵を借りて部屋に入ります。そこで目にしたのは、部屋中に散乱した「もちラーメン」の空容器と、透明なゴミ袋に詰め込まれた同じカップ麺の残骸でした。
相方が長く帰っていないと聞いて、本気で心配しながら部屋に入りましたが、最初に飛び込んできたのは、想像以上の量の「もちラーメン」の空き容器でした。心配な状況なのに、「どれだけハマってたんや」と思わず笑ってしまう自分もいて、複雑な気持ちになりました。
行方を案じる気持ちと、部屋に残された痕跡のあまりの偏りに対する可笑しさが、同時に立ち上がる状況です。深刻さと笑いが同居してしまう瞬間に、又吉氏は強い人間味を感じています。また、相方との思い出が詰まった映画ビデオが、後に別の用途のカモフラージュとして使われていたことを知る場面も語られます。大切な共有体験と、実利的な目的が奇妙に重なり合うところにも、人間特有のずれが見えています。
靴代をめぐる価値観と、自分の生真面目さへの違和感
さらに、若手時代に中川家から靴代として一万円を渡された場面も取り上げられます。舞台に立つなら足元も整えた方がよいという助言とともに渡されたお金を、又吉氏は素直に受け取り、きちんと靴を買って報告に行きます。しかし相方はその場に現れず、後から別の使い方をしていたと知ります。
先輩からの厚意として靴代をいただいたので、迷わず靴を買ってお礼を伝えに行きました。ただ、相方は別のことに使っていて、その時は裏切られたような気持ちになりました。ところが、後日その話を先輩にしたところ、「そっちの方が人間らしい」と言われ、自分のほうが規則通りに動くだけの存在に見えてしまいました。
又吉氏は、言われた通りにしか動けない自分の生真面目さに違和感を覚えます。枠から外れる行動は非難されがちですが、そのずれの中にこそ、その人の欲望や迷いが表れます。そこから、予定通りに物事をこなす在り方だけが正しいわけではなく、逸脱を含んだ揺れそのものが人間なのではないかという結論へとつながっていきます。
百個のエピソードで人間像を立ち上げる試み
こうしたエピソードを束ねる軸として、「百の三 人間とは何か」という企画があります。一つのテーマに対して百個の答えをひねり出すことで、自分でも自覚していなかった感覚や、普段は言葉にならない部分が浮かび上がるのではないかという発想です。今回の収録では、今後の作詞企画の準備も兼ねて、人間観の下ごしらえとしてこの作業が行われています。
百個挙げると決めることで、いつもの自分なら選ばないような考え方や、言葉になっていなかった感覚まで引っ張り出せるのではないかと思っています。人間について歌詞を書く前に、まずは自分の中にある「人間ってこうだ」というイメージをできるだけ細かく分解しておきたいと感じています。
このように、企画の背景と個別のエピソードが交差することで、「人間とは何か」という抽象的な問いが具体的な人の姿として立ち上がります。完璧から少し外れた行動や、笑いと切実さが同居する場面に光を当てる姿勢が、この後に続くテーマ全体の基調となる人間観を形づくっています。
家族との距離感から見えてくる「人間らしさ」のかたち
- ✅ 家族の率直さや遠慮のなさの中に、人間の本音や欲望がむき出しになる瞬間がある。
- ✅ 母の容赦ない一言や、父母の散歩中の傘の差し方、祖母の米をかける行動など、合理性を超えたふるまいは人間らしさの象徴。
- ✅ 甥や姪といった子どもたちの視点によって、自分や家族の日常が別の角度から照らされ、人間観が更新されていく。
- ✅ 家族を「最初に出会った他人」として捉え直すことで、血縁に甘えない距離感から、人間そのものについて考え直す視点が示されています。
このテーマでは、又吉氏が両親や祖父母、甥や姪との関係の中から見出す「人間らしさ」が語られています。家族という最も身近な存在だからこそ、遠慮のない本音や説明不能なふるまいが表に出やすくなります。その様子を丁寧に観察し直すことで、人間は必ずしも合理的でも一貫的でもなく、むしろ矛盾や謎めいた行動に満ちているという視点が浮かび上がります。
母の率直な一言にあらわれる本音と体面
又吉氏は、久しぶりに母や親戚と食事をする場面を振り返ります。コロナ禍で実家に帰ることを控えていた時期が続いた後、仕事で大阪を訪れたタイミングで母と会食することになり、最後に記念写真を撮る流れになります。その際、普段は髪を結んでいる又吉氏が「写真なら下ろした方が分かりやすい」と判断して髪を下ろすと、母から意外な言葉が返ってきます。
食事の最後に記念写真を撮ろうということになって、普段は結んでいる髪を下ろした方が写真映えするかなと思って下ろしました。すると母に「ナオキ、それか。汚いから結んどき」と言われて、思ってもみなかった反応に少し笑ってしまいました。自分では自然なスタイルやと思っていたので、「汚くはないで」と説明しても母には全く伝わっていない感じでした。
又吉氏は、このやり取りに、母の「率直さ」と「体面を気にする気持ち」が同時に現れていると見ています。テレビに映る息子の髪型を、視聴者の目線で気にかけている部分と、本人のこだわりをあまり重視しない感覚が、家族特有の近さとして表れているからです。
母としては、きっと「そんな髪型でテレビに出てほしくない」という素直な気持ちだったのだと思います。そこに悪意はなくて、ただ自分の感覚のままに言葉が出ている。僕の側から見ると複雑ですが、その飾らなさはある意味ですごく人間らしいとも感じました。
雨の散歩と祖母の米がけに見る「説明不能さ」
母と父のエピソードでは、沖縄への帰省中に行った家族での朝の散歩が紹介されています。ある朝、大雨が降っているにもかかわらず、父はいつも通り傘も差さずに歩き始めます。それを見て母は父にだけ傘を差し、自分はずぶ濡れのまま横を歩き続けたといいます。
大雨の日でも父は平気な顔で散歩に出ていって、母は「濡れるわ」と言いながら父にだけ傘を差していました。母自身はほとんど濡れっぱなしで歩いていて、父も母が濡れていることに気づいていないように見えました。よく考えるとどちらもかなり変わっていて、そこに不思議なおかしさを感じました。
この場面には、他者を思いやろうとする気持ちと、自分自身の状態への無頓着さが同時に存在しています。合理的な判断からすれば、二人とも傘を差すか、雨の日は散歩をやめるという選択肢が浮かびますが、現実にはそうならないという点に、人間の生き物としての「わけの分からなさ」がにじみます。
さらに、祖母が父の頭に米をかけるエピソードも紹介されます。甥と祖父がトランプで遊び、負けず嫌いの祖父が機嫌を悪くしている場面で、祖母は笑いながら父の頭に米をかけ続けて場をなだめようとしました。この行動の理由は家族の誰にも分からず、塩の代わりに米を使ったのではないかという推測だけが残ります。
祖父がトランプで負けて機嫌が悪くなっていた時、祖母が笑いながら父の頭に米をかけ始めたと聞きました。なだめようとしていたのは分かるのですが、なぜ米なのかは誰も説明できません。ただ、その意味の分からなさごと含めて、すごく人間っぽい出来事やなと感じました。
子どもの観察眼が照らし出す人間の側面
又吉氏は、甥や姪のエピソードからも人間らしさを読み取ります。水族館に一緒に行った際、イルカショーで調教師とイルカが同時に回転する場面を見た甥が、「イルカも回るしおじさんも回る」と同列に捉えていたことが印象に残ったと語ります。
イルカショーで、イルカが回転ジャンプをしている横で調教師の方もクルッと回る演出があって、甥に「イルカ回ってるな」と声をかけたら「おっさんもな」と返してきました。多くの人はイルカだけを見ると思うのですが、甥にとっては両方が同じくらいおもしろい光景として映っていたんだと思います。
大人は演出の仕組みを自明のものとして見過ごしがちですが、子どもは対象を分けずにフラットに見ることで、別の構図を浮かび上がらせます。その視点を通して、舞台の裏方として動く人間の存在や、演じることそれ自体の可笑しさがあらためて意識されていきます。
また、甥や姪が祖父母の近況をよく尋ね、ささいな所作まで観察している様子にも触れています。そこには、血縁に甘えながらも、相手のことを知ろうとする素直な関心があり、その姿が又吉氏には「自分よりよほど心が美しい」と映っています。
甥や姪は、会うたびに「おじいちゃんおばあちゃん最近どう」と聞いてきて、両親の何気ない癖や行動もよく覚えています。僕よりもずっと両親のことを知りたがっていて、その素直さにいつも感心させられます。そういう姿を見ていると、自分が家族をきちんと見ていなかったのではないかとも思わされます。
家族を「最初に出会った他人」として見直す感覚
こうしたエピソードを重ねながら、又吉氏は家族を「生まれて最初に出会った他人」として捉え直す感覚についても言及します。かつては最も近い存在だと思っていた両親や姉が、大人になって距離を置いて見ると、自分とは全く違う価値観や癖を持った「不思議な人たち」に見えてくると語ります。
子どもの頃は家族が一番近い存在やと思っていましたが、年齢を重ねてから会うと、むしろよく分からない部分も多い不思議な人たちに見えてきます。最初に出会った他人というか、一番身近な他者として見直すことで、人間そのもののわけの分からなさをあらためて感じるようになりました。
このように、家族との関係は、親しさと違和感、本音と建前、合理性と説明不能さが入り混じる場として描かれています。又吉氏は、その矛盾に満ちた揺れこそが人間らしさの核であると捉え、次のテーマで扱われるサッカーや仕事仲間との関係へと、人間観を広げていきます。
サッカーとスポーツが映し出すプロの矜持と人間味
- ✅ プロサッカー選手の人間らしさは、厳格な自己管理だけでなく、他者への敬意のために自らのルールをあえてねじ曲げる瞬間に表れる。
- ✅ 元日本代表が草サッカーでも一切手を抜かず、本気のスライディングタックルを仕掛ける姿に、プロとしての矜持と同時に「怖さを含んだ人間味」が見いだされています。
- ✅ サッカーの神様と呼ばれるペレがPKやり直しで審判に抗議する場面や、サッカー芸人たちの「キーパーは屁こき放題」という発言などに、勝負の裏側にある率直な欲望や弱さが示されています。
- ✅ 子ども向けのサッカー教室でつい本気を出しすぎてしまう自分を振り返り、楽しませる役割と競技者としての性分の間で揺れる心こそ、人間らしさの典型。
このテーマでは、サッカーを中心としたスポーツの場面を通して、又吉直樹氏が感じ取る「プロの矜持」と「人間らしい弱さ」の両立が語られています。ストイックな自己管理や華やかなプレーの裏側で、料理を勧められればルールを曲げてでも食べてしまう瞬間や、子どもを相手にしながら本気になり過ぎてしまう場面が、具体的なエピソードとして描かれています。
三浦知良のストイックさと、ホームパーティーで見せる柔らかさ
又吉氏は、三浦知良選手のドキュメンタリー番組を見た体験から話を始めます。番組では、年齢を重ねても第一線でプレーを続けるための徹底した食事制限や、揚げ物を一切取らない生活が強調されていました。しかし、同じ番組の中で、チームメイトのホームパーティーに招かれた三浦選手が、テーブルに並んだ唐揚げなどの揚げ物を普通に口にする場面が映し出されます。
ドキュメンタリーでは、三浦さんが揚げ物をやめて体を徹底的に絞り込んでいる姿がずっと映っていました。ただ、チームメイトのホームパーティーに行った時だけは、出てきた唐揚げを「これは食べる」と言って普通に食べていて、その姿がすごくかっこいいと感じました。自分のルールよりも、もてなそうとしてくれている人の気持ちを優先しているように見えたからです。
又吉氏は、食べないことを貫くストイックさもプロとして尊敬すべき姿だと認めつつ、出された料理を喜んで受け取り、そのうえで結果を出し続ける在り方に、より強い憧れを抱いています。それは、勝負の世界に身を置きながらも、自分という存在を支えてくれる他者の気持ちを軽んじない態度であり、又吉氏にとって「人間らしさ」の一つの理想として映っています。
元日本代表の全力タックルに見たプロの怖さと魅力
続いて、又吉氏はナインティナインの番組で草サッカーに参加した際の経験を語ります。Jリーガーや元日本代表選手も参加する試合に招かれた又吉氏は、早めにグラウンドに到着すると、一人だけ先に走り込みをしている選手を見かけます。それが、かつて左サイドバックとして活躍していた津波選手でした。
試合開始の三十分前に着いたら、もう一人だけアップをしている人がいて、それが津波さんでした。子どもの頃から憧れていた左サイドバックの選手だったので、同じピッチに立てるだけでうれしかったのですが、敵チームとして対面した瞬間、全力のスライディングタックルを受けて、本気のプロはここまでやるのかと怖くなるくらいでした。
アマチュアの芸人相手でもいっさい手を抜かない津波選手のプレーに、又吉氏は恐怖と同時に敬意を抱きます。場の空気を読んで力を抜くのではなく、「サッカーをする以上は全力で」という姿勢を貫く様子が、プロとしての矜持であり、その一本気さ自体が人間らしいと感じられています。
ペレのPKと「神様ではなく人間」としての姿
サッカーの神様と称されるペレにまつわるテレビ番組のエピソードも紹介されます。とんねるずの木梨憲武氏とペレがPK対決をする企画で、ペレが放ったシュートを木梨氏が止めてしまう場面がありました。その際、ペレは審判に対して「キーパーが先に動いた」と主張し、PKのやり直しを求めます。
子どもの頃、テレビでペレと木梨さんのPK対決を見た時、ペレがシュートを止められて「キーパーが先に動いた」と文句を言い、蹴り直しになりました。その姿を見て、ペレも勝負事になると必死に食い下がる一人のサッカー好きなんだなと感じて、神様というよりすごく人間らしいと思いました。
この場面について又吉氏は、ペレに失望するどころか、むしろそこに好感を抱いたと語ります。完璧で超越的な存在としての「神様」ではなく、自分のプレーにこだわり、負けを受け入れがたいと感じてしまう一人の人間であることが、かえって魅力を増していると感じたからです。サッカー界の英雄でさえ、勝ち負けの前では感情を抑えきれないという事実が、人間の普遍性を示す例として位置づけられています。
サッカー芸人たちの「屁こき放題」と、子ども相手の本気プレー
サッカー経験者の芸人仲間との雑談の中にも、又吉氏は人間らしさを見いだします。サッカーあるあるを言い合う場で、「勝っている試合で、相手のゴール前まで攻め込んでいる時のキーパーは暇なので、屁こき放題だ」という一言が出たといいます。
サッカー芸人同士で集まってあるあるを言い合っていた時、「勝っている試合でずっと攻めている時のキーパーは屁こき放題や」という言葉が出て、誰もが「確かに」となりました。決して上品な話ではないですが、どれだけ真剣なスポーツでも、人間の生理的な部分からは逃れられないという感じがして、すごく人間くさいと思いました。
ここには、勝負の厳しさと同居する緩さや、生理現象すらネタにして笑い合う人間の性質が表れています。又吉氏は、この感覚を近代文学に描かれる人間像とも重ね、愚かさや情けなさといった側面を含めて人間を捉えようとする視点を示しています。
また、子ども向けのイベントでサッカーを教えた際、最初は楽しませるつもりだったにもかかわらず、気づけば本気で小学生を次々と抜き去り、女の子に強いキックフェイントをかけてしまった自分を振り返る場面も語られます。
子どもたちとサッカーで遊ぶ会に呼んでもらった時、最初は一緒にボールを追いかけて笑い合っていたのですが、だんだん本気になってしまい、小学生を本気で抜き去ったり、女の子に強いキックフェイントをかけたりしていました。ゴールを決めた瞬間に「何をしているんだ」と我に返り、楽しませる役割を完全に見失っていたことに気づいて、これも人間やなと感じました。
楽しませる立場と競技者としての性分の間で揺れ動き、結果として少しやり過ぎてしまう自分の姿に、又吉氏は人間のどうしようもなさと愛おしさを重ねています。そこには、頭では正解を理解しながらも、感情や身体の記憶に引っ張られてしまう人間の弱さが表れています。
憧れと後悔がつくる人間らしいサッカー観
さらに又吉氏は、サッカー選手だけは写真をお願いしてもよいと自分にルールを決めていることや、かつて世界的ストライカーのエムボマ選手と握手する機会を遠慮してしまい、その後長く後悔していることも打ち明けます。
有名人に写真をお願いすることはほとんどないのですが、サッカー選手だけは別にしていて、状況が許せばお願いするようにしています。高校時代にエムボマ選手と同じ場所にいたのに、「疲れているだろう」と遠慮して握手を求めなかったことをずっと引きずっていて、あの時だけは行くべきだったと今でも思います。
このエピソードには、憧れの対象を前にした時の遠慮深さと、その選択を後から悔やみ続ける人間の心の動きが凝縮されています。尊敬や配慮と、自己主張のバランスをうまく取れないもどかしさもまた、人間らしさの一部として描かれています。
こうしたサッカーをめぐるエピソードの数々を通じて、又吉氏は、プロの世界の厳しさと、その裏側に潜む愚かさや迷い、欲望をあわせて「人間」として捉えようとしています。単なる美談でも失敗談でもなく、その両方が同時に存在する揺れを見つめる視点が、次のテーマで扱われる芸人仲間や街の人々の話へと自然につながっていきます。
芸人仲間と街で出会う人に見る、不器用な優しさとおかしみ
- ✅ 又吉氏は、芸人仲間や街で出会う人の「うまく立ち振る舞えない瞬間」に、人間らしい魅力が濃く表れる。
- ✅ 受賞パーティーで場を壊さずに笑いを生む芸人や、服一枚をめぐって素直になれない友人の姿から、不器用な思いやりのかたちが描かれています。
- ✅ スナックのママにあえて異議を唱える後輩、小銭を拾う役者たち、責任を果たせず「どうするの」とつぶやく警備員などに、人間の弱さと誠実さが同居する様子。
- ✅ 労働者の街で出会った男性や炊き出しに向かう人々の後ろ姿から、肩書きとは別の「生活者としての顔」を見る視点が示されています。
このテーマでは、又吉氏の周囲にいる芸人仲間や、街で偶然出会った人々の振る舞いを通して、「人間らしさ」がどのように立ち上がるかが語られています。芸人として場を盛り上げようとしながらもうまくいかない姿や、正しさと遠慮のあいだで揺れる後輩の態度、責任を果たせなかったことを噛みしめる警備員の表情などが、具体的なエピソードとして描かれています。そこには、器用さや完璧さとは別の次元で、人間の魅力や弱さが共存する瞬間が浮かび上がっています。
受賞パーティーで揺れ動く吉村崇氏のサービス精神
又吉氏は、芥川賞受賞時のパーティーに駆けつけたノブコブ吉村崇氏の振る舞いを、人間らしさの象徴として挙げています。会場に着くと吉村氏は、まず自分のためか又吉氏のためか分からない「付けひげ」を用意し、「これは出さんといて」と言いながら、場の空気を乱さないように気を配っていました。
受賞式の会場に着いたら、吉村くんがキョロキョロしながら僕を探していて、「とりあえず付けひげは用意しているよ、でも今日は出さんといて」と言ってきました。自分のボケ欲と、周りへの気遣いのあいだで揺れている感じが、いかにも吉村くんらしいなと思いました。
その後の小規模な打ち上げでは、編集者や作家たちが順にスピーチを行い、場は落ち着いた祝福ムードになります。最後にマイクを渡された吉村氏は、「皆さんグッドイブニング」と切り出し、静かな空気の中で独特の笑いを生み出します。
厳かなムードの中でマイクが回ってきて、吉村くんが「皆さんグッドイブニング」と言った瞬間、場がふっと揺れました。ふざけ過ぎないギリギリのところで笑いを作ろうとしていて、その後はきちんと励ましの言葉も添えてくれていました。その不器用なサービス精神に、すごく人間味を感じました。
完璧に場を読んでスマートに振る舞うのではなく、「やや浮いてしまうかもしれない」と分かりつつも、自分なりの役割を果たそうとする姿に、又吉氏は強い親近感を抱いています。
フルーツポンチ村上氏のボーリングシャツと、素直になれない心
又吉氏は、フルーツポンチ村上健志氏とのボーリングシャツをめぐるやり取りも、人間らしいエピソードとして紹介します。村上氏の衣装を見て「そのシャツはコントの邪魔になっている」と率直に伝え、自分が三千円出すので一緒に新しいシャツを買おうと提案しますが、その場で村上氏は購入を見送ります。
村上くんに「今のシャツはコントの邪魔になっているから、もっと合うのにした方がいい」と話して、一緒にボーリングシャツを見に行きました。「三千円出すから、お前も三千円出してこれを買おう」と言ったのですが、その場では「大丈夫です」と断られてしまいました。
ところが翌日になって村上氏は、あらためて電話をかけてきて、「あのボーリングシャツがすごく良く思えてきた」と打ち明けます。既に又吉氏も同じシャツを自分用に買っており、売ってほしいという要望を断る形になってしまいますが、双方の気まずさと愛着が入り混じったやり取りに、独特の可笑しさが生まれています。
次の日に村上くんから電話が来て、「昨日のボーリングシャツ、やっぱりめっちゃ良かった気がしてきて」と言うんです。実はその日のうちに僕も自分用に買っていたので、「もう買ってしまっていて」と答えたら、「売ってくださいよ」と言われて、二人ともややこしいなと思いながら笑ってしまいました。
おしゃれや体裁にこだわりつつも、その場では素直になれない心の動きが、時間差の電話というかたちで表面化していきます。この「めんどうくささ」自体が、人間らしさの一部として描かれています。
スナックのママと、正義感の強い後輩がつくるぎこちなさ
又吉氏は、大阪で高校時代の同級生と飲みに行った際、野球部出身の後輩とスナックを訪れた経験を振り返ります。その後輩は普段から礼儀正しく、誰の話にも肯定的にうなずき、場を乱さない人物でした。
野球部の後輩は、とにかく礼儀正しくて、誰の話にも「そうですね」とうなずいてくれるような子でした。飲食店でも空気を読んでくれて、後輩として完璧に立ち回ってくれていた印象があります。
そのスナックで、明るくて歌のうまいママが又吉氏を見て「芸人だろう、私の方が面白い」と冗談めかして言います。又吉氏は「ママの方が面白いです」と受け流しますが、正義感の強い後輩はそこに引っかかり、「それは違うんじゃないですか」と静かに異議を唱えます。
ママに「芸人より私の方が面白いや」と言われて、僕は「ママの方が面白いですよ」と返したのですが、後輩は真面目に受け止めてしまって、「それは違うんじゃないですか」と言っていました。ママも後輩も悪気はなくて、それぞれの正しさから出た言葉だと分かるので、余計にぎこちない空気になっていました。
笑いとして流してしまうのか、それとも軽口にもきちんと筋を通そうとするのか。その判断が揺れた結果として生じる居心地の悪さが、人間関係の難しさと面白さを同時に示しています。
電車で小銭を拾う役者たちと、「どうするの」とつぶやく警備員
日常の何気ない場面にも、又吉氏は人間らしさを見出します。舞台稽古の帰りに電車へ乗った際、他の乗客が小銭を床に落としたところ、同じ車両に乗っていた役者が素早く駆け寄って拾い上げる場面を目撃します。それを見て「優しいな」と感じた瞬間、別の役者も続き、最終的には三人が一斉に動く姿になります。
電車の中で見知らぬ人が小銭を落とした時、役者さんの一人がすぐに拾いに行っていて、「優しいな」と思いました。そう感じた瞬間にもう一人も動いて、三人目まで行ったところで、僕は「ちょっと多いな」と思ってしまって、その自分が一番嫌になりました。
善意が重なっていく場面で、「自分も行くべきか」「もう十分か」と迷う心の動き自体が、又吉氏にとっては非常に人間的なものとして映っています。善良さと打算、照れが同時に入り混じる瞬間が、そのまま人間像の一部になっています。
また、かつて労働者の多い地域で撮影を行った際のことも語られます。建物の警備を担当していた警備員が、何らかの侵入被害を受けた後、暗い表情で並んで歩きながら「どうするの」とつぶやいていたのを見かけたといいます。
建物に誰かが入ったらしく、警備員の方が暗い顔で二人並んで歩きながら「どうするの」と言っていました。警備というと厳格なイメージがあったので、その肩を落とした後ろ姿が、かえって人間らしく見えました。責任を果たせなかった悔しさと不安が、その一言に全部出ているように感じました。
労働者の街で見た「生活者としての顔」と人間観の広がり
さらに又吉氏は、かつて釜ヶ崎と呼ばれていた地域での取材経験を通じて、人間への見方が揺さぶられたと語ります。現地の活動を取材している際、「何が先生やねん、芸人やろ」と声が飛び、作業着姿の日焼けした男性が近づいてきます。その人物は「お兄ちゃん真っ白やな、俺真っ黒」と笑いながら話しかけてきて、又吉氏は自分がどこか構えていたことに気づかされます。
最初は少し怖さも感じながら取材していたのですが、「お兄ちゃん真っ白やな、俺真っ黒」と笑って話しかけてくれた方がいて、その顔つきが本当にかっこいいと思いました。自分の方が相手を一方的に見ていたことに気づかされて、恥ずかしくなりました。
その近くの公園ではフォークシンガーが歌い、前には多くの労働者が集まっていました。しかし曲が終わると同時に、聴衆は一斉に炊き出しの列へ向かいます。その光景を目にした又吉氏は、「音楽の場」と思っていた空間が、生活のための現実の場でもあることを強く意識するようになります。
フォークシンガーの前に大勢の人が集まっていて、「この人はカリスマ的な歌い手なのかな」と思って見ていました。ところが曲が終わった瞬間、みんなが一斉に後ろの炊き出しに向かって歩き出して、その背中を見ながら、生活の重さと人間のしたたかさを同時に感じました。
芸人仲間の不器用な優しさから、街の人々の生活のにじむ表情まで、又吉氏は一つ一つの場面に「言葉になりきらない感情」の揺れを見ています。その揺れを丁寧にすくい取ることで、「人間とは何か」という大きな問いが、具体的な顔や声を伴った物語として読者の前に現れてきます。
出典
本記事は、YouTube番組「【完全版】「人間」とは何か 人間関係に悩む貴方へ「生き方・考え方のヒント」を又吉が実体験で感じてきた“人間らしさ”全開のエピソード100連発でお届け【百の三_人間とは何か】【前編】」(ピース又吉直樹【渦】公式チャンネルにて公開)の内容をもとに要約しています。
読後のひと考察──事実と背景から見えてくるもの
日常のエッセイや会話では、「完璧で立派な人」よりも「少し抜けていて、いじわるではない愚かさを持つ人」のほうが魅力的だと感じる場面が多くあります。この直感は、社会心理学や家族研究のいくつかの知見とも重なります。たとえば、有能な人の「ちょっとした失敗」が親しみやすさを高めるというプラットフォール効果や[1,2]、脆さを見せることが他者からは好意的に評価されやすいという研究が知られています[3]。
一方で、家族関係やスポーツの現場では、不器用さや矛盾が必ずしも「温かい人間味」として受け止められるとは限らず、葛藤や不信の原因にもなります[4–8]。また、街中の助け合いも、「誰も助けてくれない」というイメージと「意外と多くの人が介入している」というデータのあいだにギャップがあります[9,13,14]。
本記事では、「かわいげのある愚かさ」や「人間らしさ」という感覚を、①日常の小さな失敗、②家族のアンビバレンス、③スポーツにおけるフェアプレーとズル、④街中の助け合い、⑤職場の心理的安全性、という五つの側面から検証し、最後に仕事や生活への示唆としてまとめます。
問題設定/問いの明確化
ここでの中心的な問いは、「人間らしさ=不完全さ」という直感が、どこまで科学的知見と両立し、どこからが危ういロマン化になるのか、という点です。
とくに次のような素朴な考えを、一度立ち止まって検証します。
① 有能な人ほど、ちょっと抜けているほうが好かれるのではないか。 ② 家族の「わけの分からなさ」にこそ、人間の本音が出るのではないか。 ③ スポーツでは、ストイックさと同じくらい「ルールから少しはみ出す」瞬間に人間味が宿るのではないか。 ④ 街でのささやかな親切やためらいが、人間理解の鍵になるのではないか。 ⑤ 組織では、不完全さを許す心理的安全性がパフォーマンスにどう影響するのか。
これらはどれも直感的には納得しやすいものですが、そのまま受け入れると「失敗やルーズさはすべて肯定されるべきだ」という極端な結論にもつながりかねません。そのため、統計や実証研究にもとづき、どこまでが支持され、どこからが注意すべき飛躍なのかを確認していきます。
定義と前提の整理
まず、「人間らしさ」という広い言葉を整理します。本稿では便宜的に、次の三点に分けて考えます。
① 他者から見た「好ましさ・親しみやすさ」 ② 長期的な関係における「信頼・安心感」 ③ 倫理的観点からの「公正さ・責任感」
また、「不完全さ」や「愚かさ」といっても幅があるため、ここでは主に「重大な損害や加害性を伴わない、小さなミスや判断のずれ」を対象にします。暴力や虐待、ハラスメント、重大な義務違反などは別次元の問題であり、「人間味」として美化すべきではない、という前提を明確にしておきます。
さらに、人間らしさの評価は文脈にも左右されます。高リスクの医療現場や安全が最優先の業務では、小さな失敗でも許容されにくくなります。一方、家族や友人関係、創作現場などでは、不完全さがむしろ魅力として働く余地が大きいと言えます。この「場の違い」を意識しておくことが、研究結果を誤解しないための前提になります。
エビデンスの検証
1. 小さな失敗と好感度―プラットフォール効果
社会心理学では、すでに有能だと見なされている人がちょっとしたドジを踏むと、かえって魅力が増すという「プラットフォール効果(pratfall effect)」が報告されています。アロンソンらの古典的実験では、高得点のクイズ解答者がコーヒーをこぼした場合、こぼさない場合よりも好意的に評価されました[1]。
ただし、「もともと有能ではない」と見なされている人物が同じ失敗をすると、好感度は下がる傾向も示されています[1,2]。したがって、「失敗=魅力的」ではなく、「十分な能力が前提にあるとき、無害な失敗が人間味として働く」と整理したほうが実証結果に近いと言えます。
2. 脆さの開示と「美しい混乱」
自分の弱さや失敗をさらけ出すことについても、興味深い結果があります。近年の研究では、人は自分が脆さを見せると「きっと悪く思われる」と過小評価しがちですが、他人が同じように脆さを見せるときには、むしろ好意的に受け止める傾向が示されています[3]。
ブルクらは、恋愛感情の告白、失敗の告白、助けを求める行為など複数の場面で、自己評価と他者評価のギャップを検証しています。その結果、本人にとっては「情けない」と感じる振る舞いが、他者からは「誠実で勇気のある行動」と評価される場合が多いことが示されました[3]。このギャップは、他者の不完全さを好意的に解釈しやすい人間の傾向を示していると考えられます。
3. 家族のアンビバレンスという普通の状態
家族関係については、「大好きか大嫌いか」という二分法ではなく、愛情と苛立ちが同時に存在する「アンビバレンス」という概念が用いられています。高齢期の親子関係を扱った研究では、強い愛情や責任感と同時に、不公平感や失望感が併存することが多く報告されており、これを「世代間アンビバレンス」として測定しています[4,5]。
ピレマーらは、多くの親子関係が「基本的には支え合いながらも、ときに摩擦や緊張を伴うもの」として経験されていることを示し、このアンビバレンス自体はごく普通の現象だと指摘します[4]。つまり、家族の中にある「わけの分からなさ」や「説明しづらいふるまい」は、必ずしも関係の破綻を意味せず、人間関係の複雑さそのものを映し出していると考えられます。
4. スポーツにおける道徳的行動とズル
スポーツ心理学の分野では、フェアプレーや反則、いわゆる「ズル賢さ」がどのように選手の価値観やチーム文化と関わるかが研究されています。レビュー論文では、スポーツ場面には、反則や挑発などの「アンチソーシャル行動」と、相手への励ましや助力などの「プロソーシャル行動」の両方が存在し、それぞれが勝利志向や道徳的アイデンティティと関連することが整理されています[6]。
若いテニス選手を対象にした研究では、「勝つためなら多少のズルも仕方ない」という態度が強いほど、実際の試合での反則やグレーゾーン行為が増えることが示されています[7]。さらに、道徳的アイデンティティや後悔の感情が強い選手ほど、ズルをしにくい傾向も報告されており[8]、勝利への欲求と道徳的自己像のあいだでの揺れが人間らしさの一部として浮かび上がります。
5. 傍観者効果・メタ分析・CCTV研究から見える二つの顔
日常のささやかな優しさや「見て見ぬふり」を考える上で、傍観者効果の研究は重要です。ダーレイとラタネの古典的実験では、他者が多く存在するほど援助行動が起こりにくくなる、いわゆる責任分散の現象が示されました[9]。
しかし、その後のメタ分析では、状況によってはこの効果が弱まったり、逆転したりすることも示されています。フィッシャーらのメタ分析は、1960年代から2010年までの105の効果量・約7,700人分のデータを統合し、「全体としては他者が多いほど援助は減るが、危険度が高い緊急場面ではむしろ介入が促されるケースもある」と報告しています[13]。
さらにフィルポットらは、イギリス・オランダ・南アフリカの監視カメラ映像219件を分析し、公共の暴力的紛争の約9割で、少なくとも一人の傍観者が介入していたことを示しました[14]。これは「現実の路上では、誰も助けない」というイメージとは異なる結果であり、複数の傍観者がいる場面でも、多くの場合は誰かが動いていることを示唆します。
この二つの系統の研究を合わせて見ると、「人は他人の前では冷たくなる」という単純な図式よりも、「状況によって助けたりためらったりする」という揺れこそが、人間らしさを構成していると考えられます。
6. 日常的向社会行動と幸福感
落とし物を拾う、ドアを押さえる、同僚を手伝うといった日常的な向社会行動は、当人の幸福感や自己効力感とも関連します。オンライン介入を通じて「親切行動」を促した研究では、小さな親切を意識的に増やした人々に、主観的幸福感や自己効力感の向上が確認されています[10]。
こうした研究は、「助ける側が得をする」という側面を示しており、人間らしさを「他者への配慮」と「自分の満足感」の両方を含むものとして捉え直す視点を与えます。
7. 心理的安全性と学習・パフォーマンス
組織やチームにおいては、「失敗しても罰せられない」「未完成のアイデアを出しても笑われない」という感覚、いわゆる心理的安全性が、学習行動とパフォーマンスに関わることが示されています。医療チームなどを対象にしたエドモンソンの研究では、心理的安全性が高いチームほどエラー報告や質問、試行が活発であり、その学習行動がチームの成果につながると報告されています[11]。
複数研究を統合したメタ分析でも、心理的安全性は創造性・イノベーション・パフォーマンスと正の関連を持つことが示されています[12]。さらに、エドモンソンの著書では、心理的安全性と高い基準・説明責任を両立させる「学習ゾーン」と、心理的安全性は高いが基準が低い「コンフォートゾーン」などの対比が提示されており、単に「安全ならよい」という話ではないことが強調されています[15]。
反証・限界・異説
ここまでの知見は、「無害な範囲の不完全さや脆さは人間関係にプラスに働きうる」という方向性を示していますが、いくつか重要な限界があります。
第一に、プラットフォール効果は「既に有能だと見なされている人」に限定して見られる傾向であり、能力への信頼がない場合には同じ失敗がマイナスに作用することが示されています[1,2]。「ミスをしたほうが好かれる」という一般化はできません。
第二に、脆さの開示や「ありのままの自分」を出すことは、文化や立場によって評価が大きく異なる可能性があります。脆さを見せることがポジティブに評価される場面がある一方で、リーダーシップの文脈では「過度な自己開示が信頼を損なう」「自己中心的な本音の押しつけになる」といった批判もあり、状況判断が重要です[3,15]。
第三に、家族のアンビバレンスは一般的な現象とはいえ、その中には虐待や搾取など、改善が必須の問題も含まれます[4,5]。それらを「人間らしい矛盾」としてロマン化してしまうと、被害を見過ごす危険があります。
第四に、スポーツや職場での「人間らしさ」を理由に、反則やハラスメントを「仕方ない」と流してしまう危険もあります。道徳的アイデンティティや後悔の感情がズルを抑制するという研究結果は、「人間は弱いからこそ、ルールや教育による支えが必要だ」という別の読み方も可能です[6–8]。
第五に、心理的安全性について、「強調しすぎると甘くなるのではないか」「率直なフィードバックが減るのではないか」といった懸念が、一部の実務家向けレビューやコンサルティング記事で指摘されています[16]。こうした議論は、エドモンソンらの理論枠組み(高い心理的安全性と高い説明責任の両立)を踏まえつつ、現場感覚にもとづいて「安全性だけを切り取って導入するとコンフォートゾーンに陥りうる」という注意喚起を行うものです。ただし、この「やり過ぎの弊害」については、現時点で体系的な実証研究が十分にあるわけではなく、主に理論的・実務的な論考として位置づけるのが妥当だと考えられます。
実務・政策・生活への含意
これらの知見を踏まえると、「いじわるではない愚かさ」や「不器用さ」をどう扱うかについて、いくつかの示唆が得られます。
個人レベルでは、完璧さを目指して失敗や弱さを完全に隠そうとするよりも、「必要な能力を磨きつつ、無害な範囲の不完全さは認める」姿勢が、人間関係にプラスに働きやすいと考えられます。プラットフォール効果や脆さの研究は、「ある程度の有能さが前提であれば、小さな失敗や弱さは他者からそれほど厳しく見られていない」ことを示しています[1–3]。
家族関係では、「良い家族」か「悪い家族」かという二分法を避け、アンビバレンスを前提とした見方が役立ちます。多くの親子が「支え合い」と「不満」の両方を抱えながら関係を続けているという事実を知ることで、自分だけが特別におかしいのではないと理解しやすくなります[4,5]。同時に、暴力や搾取といった明らかな越境行為については、「人間味」と混同せず、支援制度の利用や介入が求められます。
スポーツや教育の現場では、「勝つこと」だけでなく「どう勝つか」「どう負けるか」を含めた道徳教育が重要です。反則やゲームスマンシップの研究は、選手の価値観やチーム文化が行動に強く影響することを示しており、指導者がどのような態度をモデルとして見せるかが重要な意味を持ちます[6–8]。
街やコミュニティでは、「誰も助けない世界」という諦めではなく、「状況によって人は助けたり躊躇したりする」という前提で仕組みを考えることができます。メタ分析やCCTV研究は、「多くの場面で実際には誰かが動いている」ことも示しており[13,14]、防犯カメラの活用や通報しやすい仕組みづくりが、こうした人間の傾向と組み合わさることで効果を発揮しうると考えられます。
職場では、心理的安全性を高めつつ、役割や成果への責任を明確にすることが求められます。エドモンソンらの研究やメタ分析は、心理的安全性が学習とパフォーマンスの土台となりうることを示していますが[11,12,15]、実務家の議論が指摘するように「安全性だけ」に偏ると、コンフォートゾーンや「なんでも許される雰囲気」に近づくリスクもあります[16]。
そのため、失敗や疑問を率直に共有できる環境を整えつつ、「そこから何を学ぶか」「次にどう変えるか」をチームで対話する枠組みが重要になります。このバランスこそが、「不完全な人間どうし」で成果を出していく現実的な道筋だと考えられます。
まとめ:何が事実として残るか
本稿で扱った研究から、比較的しっかりとした事実として残るのは次のような点です。
① 有能と見なされている人の小さな失敗は、ときに「人間味」として好感度を高めるが、能力への信頼がなければ逆効果になりうること[1,2]。 ② 自分の脆さや失敗をさらけ出すことは、本人が恐れるほどには他者から否定的に見られておらず、むしろ好意的に受け取られる場面も多いこと[3]。 ③ 家族関係には、愛情と苛立ちが同時に存在するアンビバレンスが広く見られ、それ自体は異常ではなく、関係の複雑さを反映していること[4,5]。 ④ スポーツの世界では、勝敗への強い欲求と道徳的原則のあいだで揺れながら、人はときにズルを選び、ときにそれを後悔し、道徳的アイデンティティや後悔の感情が反則行動を抑制しうること[6–8]。 ⑤ 傍観者に関する古典研究は、人数が多いほど援助が起こりにくい傾向を示しつつ、メタ分析やCCTV研究は、危険な場面や実際の路上紛争では多くのケースで誰かが介入していることを示していること[9,13,14]。 ⑥ 日常的な小さな親切は、受け手だけでなく、行った本人の幸福感や自己効力感にもプラスになりうること[10]。 ⑦ 組織において、心理的安全性は学習とパフォーマンスの土台となりうる一方で、それ単独では不十分であり、高い基準・説明責任との組み合わせが重要だと考えられていること[11,12,15]。
一方で、「不完全さは常によい」「心理的安全性は高ければ高いほどよい」といった単純な結論は、実証研究からは直接は導かれていません。不完全さや揺れを「人間らしさ」として理解しつつも、どこまで許容し、どこからは改めるべきか。その線引きは容易ではありませんが、データにもとづいた複数の視点を手がかりに、各人・各組織が考え続けることが、今後も求められていくと考えられます。
本記事の事実主張は、本文の[番号]と文末の「出典一覧」を対応させて検証可能としています。
出典一覧
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- Brescia University(2017)『Interesting Psychological Phenomena: The Pratfall Effect』 Brescia University Blog 公式ページ
- Bruk, A., Scholl, S. G., & Bless, H.(2021)『You and I Both: Self-Compassion Reduces Self–Other Differences in Evaluation of Showing Vulnerability』 Personality and Social Psychology Bulletin 48(3) 公式ページ
- Pillemer, K. et al.(2007)『Capturing the Complexity of Intergenerational Relations: Exploring Ambivalence within Later‐Life Families』 Journal of Social Issues 63(4) 公式ページ
- Suitor, J. J. et al.(2011)『Conceptualizing and Measuring Intergenerational Ambivalence in Later-Life Families』 Journal of Gerontology: Series B 66(6) 公式ページ
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