社会不適合と生きづらさの哲学
東京大学の哲学者・梶谷真司氏は、社会の「普通」に馴染めず悩む人々に向けてこう語る。 「社会不適合と呼ばれることは、恥ではありません。むしろ、世界を深く感じ取る力なんです」 以下は、梶谷氏が語る“生きづらさの哲学”である。
社会にうまく馴染めない。組織に入っても息苦しい。そう感じたことがある人は多いと思います。 私自身、若い頃からどこか「普通」というものに違和感を覚えていました。就職して働くことが当たり前とされる中で、なぜ自分はそこに馴染めないのか。そう考え続けてきた経験が、今の哲学につながっています。
学生時代、バブルの終わり頃の日本では「良い会社に入ること」が当然の目標でした。けれど私は、その価値観の中に自分の居場所を見いだせなかったんです。 お金を稼ぐことが必要なのは分かっていましたが、心のどこかで「それだけで生きる意味になるのか」と感じていました。だからこそ、就職ではなく留学を選びました。逃げるようにドイツへ行ったとも言えます。
ところが、そのドイツで家を失い、思いがけず帰国することになりました。住む場所を追われ、次に進むしかなかった。そうして京都大学の大学院に入り、人間環境学研究科という新しい場所で哲学を学び始めました。 当時はまだ自分が何をしたいのか分からず、ただ流されるように進んでいました。でも、その曖昧さの中で出会ったのが哲学者ハイデガー、そしてシュミッツでした。彼らの言葉に触れたとき、「生きるって何だろう」という漠然とした問いが、はっきりとした形を持ち始めたんです。
哲学というのは、特別な知識を持った人だけのものではありません。 誰でも、ふとした瞬間に「これでいいのだろうか」「なぜ自分はこう感じるのか」と立ち止まることがあります。実はそれこそが哲学の始まりなんです。 私は、そうした“生きづらさ”を感じる人ほど、哲学に近い場所にいると思っています。なぜなら、違和感を覚えるということは、社会の中で無自覚に受け入れられているルールや価値観に対して「本当にそうか」と問いを立てている証拠だからです。
生きづらさとは、社会に適応できない弱さではなく、世界を敏感に感じ取る感性です。 「社会不適合」と言われる人は、むしろ社会の構造に繊細に反応している人です。だから私は、「社会不適合であることは恥ではない」と伝えたい。 哲学とは、その違和感を言葉にして、自分の足で考えるための道具なんです。
学校や会社では、あらかじめ用意された答えを“正解”とする文化があります。 でも、哲学の世界では答えがなくていい。むしろ「わからないこと」こそが出発点になります。 私たちは、わからないままでいることを恐れすぎているのかもしれません。 けれど、わからないからこそ考え続けられるし、その過程でしか本当の自分の考えには出会えません。
社会の枠からはみ出したり、生きづらさを感じたりする人がいます。 しかし、その「はみ出し」は決して間違いではありません。 そこにこそ、自分だけの哲学が宿っています。 私は、そうした違和感を持つことを恐れず、言葉にしていくことこそが、生きる上での自由だと思っています。
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哲学対話という生き方
生きづらさの根本には、「自分で考えることを止めてしまう」ことがあると思っています。 誰かが決めた正解に従ううちに、自分の感じている違和感を見ないようにしてしまう。 だからこそ私は、「哲学対話」という形で、もう一度“考える力”を取り戻す場をつくってきました。
哲学対話は、答えを出すための議論ではありません。 誰かが勝つとか、正しい意見を言うとか、そういう場ではないんです。 一人ひとりが感じていることを持ち寄って、「なぜそう感じるのか」を一緒に考えていく。 問いを共有し、考えの過程そのものを楽しむ場です。
私が考える哲学対話には、いくつかのルールがあります。 まず、「何を言ってもいい」ということ。 どんな意見でも、笑われたり否定されたりすることはありません。 次に、「人の意見を否定しない」。 正しさを競うのではなく、相手の考えの中にある“問い”を見つけることが大切です。 そして、「聞いているだけでもいい」。 発言しなくても、考えている時間そのものが対話の一部になるからです。
また、「知識ではなく、自分の経験から話す」ことも大切にしています。 哲学というと難しい理論を語るイメージがありますが、私はそうではないと思っています。 自分の体験を通して、感じたこと、考えたことを言葉にしてみる。 そこに哲学の原点があります。 知識ではなく、経験から語るからこそ、子どもでも大人でも、専門家でも関係なく対話が成立するんです。
この対話を実際に行ってみると、本当に面白いことが起きます。 世代も立場も全く違う人たちが、ひとつの問いを通してつながっていく。 幼稚園の子どもと、高校生、社会人、そしてお年寄りが、ひとつの輪になって語り合う光景は圧巻です。 お互いに気を遣いすぎず、素直に「わからない」「なるほど」と言い合える関係が生まれる。 それが哲学対話の最大の魅力です。
私はこの手法を、学校教育や企業研修、地域の話し合いなどにも広げてきました。 学校では、生徒たちが「自分の意見を言っていいんだ」と感じる瞬間が生まれます。 企業では、上司と部下の間にあった壁がなくなり、会議が変わっていくのを目の当たりにしてきました。 地域では、世代や立場を超えて語り合うことで、町づくりの方向性が自然に見えてくることもあります。
面白いのは、こうした対話を重ねることで、人と人が“仲良くなる”ことです。 たった一時間話しただけで、驚くほど距離が縮まる。 それは、相手の考え方や価値観の奥にある「生き方」に触れるからだと思います。 表面的な情報ではなく、言葉を通してその人の“在り方”が伝わってくる。 そこに共感や尊敬が生まれるのです。
哲学対話をやっていて感じるのは、「わからない」という状態の大切さです。 私たちはいつも、分かりやすい答えを求めすぎている。 でも本当は、わからないことをわからないままにしておくことこそが、考えるための余白になります。 「分かったふり」をやめてみる。 その瞬間に、初めて本当に他者と考えが交わり始めるんです。
哲学対話は、ただの知的遊びではありません。 生き方そのものを見直すための方法です。 話すこと、聞くこと、そして考えることを通して、人は少しずつ自分を取り戻していく。 私はこの営みを「生き方の筋トレ」だと思っています。 何度も対話を重ねることで、他者を理解する力と、自分の考えを言葉にする力が鍛えられていくのです。
哲学とは、孤独な思索ではなく、他者との関係の中で育まれるものです。 「わからないね」と言い合えること。 それを共有できる場があること。 それこそが、私が哲学対話で伝えたい“生き方”そのものです。
江戸の子育てと現代の正義
哲学対話を続けていくうちに、私は「教育」というものの本質を考えるようになりました。 なぜ日本では、子どもたちが自由に意見を言えないのか。 なぜ“空気を読む”ことが正しいとされ、黙っている子が「いい子」とされるのか。 その背景を探っていくと、意外なほど深い歴史の根が見えてきます。
私はここ数年、江戸時代の育児書を読み解く研究をしています。 一見すると古い時代の子育て論のようですが、そこには現代にも通じる知恵が隠れています。 江戸の子育ては、今のように「正しさ」を押しつける教育ではありませんでした。 むしろ、子どもが自分で考え、感じ、判断する力を育てることを重んじていたのです。
たとえば当時の教育書には、「子どもは親の鏡であり、親もまた子によって学ぶ」という考え方が書かれています。 つまり、親が一方的に“教える側”ではなく、共に考え成長する存在だったのです。 これを現代風に言えば、親子の「対話」です。 江戸の子育てには、哲学対話と通じる精神がすでにあったのだと感じます。
現代の教育現場では、「間違わないこと」が評価されがちです。 子どもたちは、発言する前に「これを言ったら笑われないか」「間違っていないか」と考えてしまう。 そうやって自分の考えを抑え、相手の反応を気にしながら生きるようになります。 けれどそれは、本来の学びとは違います。 学びとは、自分の中にある小さな疑問を言葉にし、それを他者と共有することです。
江戸時代の人々は、子どもを「未完成な大人」としてではなく、「独自の世界を持つ存在」として見ていました。 その世界に敬意を払うことで、子どもは自ら考え、成長していった。 私はそこに、教育の理想的な形を見るのです。 「大人が子どもを導く」のではなく、「子どもが自ら導かれていく」ような学び方です。
今、哲学対話を学校に取り入れる動きが広がっています。 授業の中で「これって何だろう?」「どうしてそう思うの?」と問いを交わすだけで、教室の空気が変わります。 先生が答えを教えるのではなく、生徒たちが自分で考える時間を持つ。 そこに、江戸の教育と共通する「学びの自由」があります。
私はよく、「正義とは何か」と学生たちに問いかけます。 そのときに出てくる答えは、本当に多様です。 誰かにとっての正義が、別の誰かにとっては苦しみになることもある。 だからこそ、正義を一つの形に固定してはいけないと思っています。 江戸の人々もまた、そうした「多様な正しさ」を前提に生きていたように思います。
現代社会では、SNSでも学校でも「正しい意見」を求められる場面が増えています。 けれど、哲学対話を通して感じるのは、正しさよりも「共に考えること」の方がずっと大事だということです。 誰かの意見に反対したり、別の考え方を出したりすることは、対立ではなく対話の始まりなんです。 それができる社会こそ、ほんとうの意味での「正しい社会」だと思います。
江戸の育児書を読むたびに感じるのは、人間を“正す”のではなく、“育てる”という視点です。 正しさを押しつける教育は、人を従わせるだけの教育になります。 でも、「あなたはどう思う?」と問いかける教育は、人を自由にします。 それが、哲学と教育が重なるところです。 江戸の思想は、現代の哲学対話が目指しているものと深く響き合っています。
私は、教育とは「正義を教えること」ではなく、「正義を考え続ける力を育てること」だと思っています。 どんな時代でも、どんな立場でも、「自分で考えること」だけは奪われてはいけない。 江戸の子育てがそうであったように、私たちもまた、子どもと共に問いを立てる大人でありたいと思います。
対話がつなぐ人と人、哲学が変える生き方
哲学を通して多くの人と出会ってきましたが、いつも感じるのは、対話の力の大きさです。 人は、話すことで変わり、聞くことで癒される。 そして、考えることでようやく「自分の人生を生きている」と実感できるのだと思います。
哲学対話の場にいると、不思議なことが起こります。 初対面の人同士でも、たった一時間語り合うだけで、まるで長年の友人のように打ち解けてしまうんです。 それは、表面的な会話ではなく、互いの考え方や感じ方の奥に触れるからです。 そこでは、年齢も肩書も関係ありません。 人が人としてまっすぐ向き合う、そんな関係が自然に生まれます。
私は哲学対話を、学校や企業だけでなく、婚活や地域づくりの場でも実践してきました。 最初は「なぜ哲学を婚活で?」と驚かれることが多かったのですが、実際にやってみると納得されます。 お互いの価値観や人生観が見えてくると、条件よりも“人柄”が伝わるからです。 表面的なマッチングでは見えない部分が、対話の中で自然と立ち上がってくるのです。
たとえば離婚を経験した人が、自分の過去を静かに語ることがあります。 それを聞いた相手が、「この人は誠実に生きてきたんだな」と感じる瞬間がある。 そこに、言葉を超えた理解が生まれます。 人間は失敗や痛みを通して深くなるものです。 哲学対話の場では、そうした“生きる厚み”が自然に共有されていくのです。
私が大切にしているのは、「わからないままでいる勇気」です。 私たちは、つい結論を急ぎたくなる。 でも、わからないことをわからないままにしておくことで、初めて他者と考えを交わせます。 哲学とは、正しさを競うためのものではなく、「ともに問い続けること」です。 この“ともに考える”という営みこそ、人と人をつなぐ力になります。
社会の中では、何かがうまくいかないと、すぐに「自己責任」という言葉が使われます。 けれど、生きることに正解はありません。 誰もが迷い、間違えながら、自分なりの答えを探している。 その過程を他者と共有できたとき、人は初めて「孤独ではなかった」と感じられるのだと思います。 哲学は、そうした人間の不完全さを引き受けるための知恵でもあります。
私は、哲学を“生き方の技術”だと考えています。 人と人が分断されがちな時代だからこそ、必要なのは「対話する力」です。 自分の考えを押しつけるのではなく、相手の考えを聴きながら、共に考える。 そこに、対立を超えた理解が生まれます。 哲学は、そのための最もシンプルで深い方法です。
生きるとは、問い続けることだと思います。 なぜ自分はここにいるのか。なぜこの人と出会ったのか。 答えが見つからなくても、その問いを抱えて歩き続けることに意味がある。 そして、その道を誰かと共に歩むことこそが、幸福なのだと思います。
哲学は難しいものではありません。 静かに立ち止まり、自分の感じた違和感に耳を傾ける。 その瞬間から、誰の中にも哲学は始まっています。 考えることは、生きることそのものです。 私はこれからも、対話を通して、人が自分自身の言葉を取り戻す手助けをしていきたいと思っています。
出典
本記事は、YouTube番組「【東京大学vs ReHacQ】社会不適合ですが何か?生きづらさの哲学」および「【東京大学vs ReHacQ】異端の哲学者…江戸の子育てと正義」(ReHacQチャンネル)の内容をもとに要約・再構成しています。
読後のひと考察──事実と背景から見えてくるもの
社会の「普通」に馴染めず、生きづらさを感じる人は少なくありません。本稿では、その感覚を「哲学的な感性」として捉え直す視点を手がかりに、社会心理学・文化比較・教育実践・メンタルヘルス研究の知見をもとに再検討します。個人が抱く違和感が、社会構造や文化規範のなかでどのように生じ、どのように回復や学びに転じうるのかを探ります。
問題設定/問いの明確化
「社会に馴染めないこと」は、しばしば個人の努力不足や性格の問題として扱われます。しかし、心理学や文化研究の領域では、社会的・制度的要因の不均衡が個人に不適応をもたらすことが指摘されています[1]。本稿では、(1)なぜ社会の「普通」から外れる人が生まれるのか、(2)その「外れ」をどのように価値化できるのか、(3)教育や対話が生きづらさをどう支えられるのか、という三点を考察します。
定義と前提の整理
社会適応(social adaptation)とは、個人が環境と調和し社会的役割を果たす過程を指します。社会的不適応(maladjustment)は、その調和が崩れた状態を意味します[2]。ただし、この適応の概念は文化相対的であり、どの行動が「普通」とみなされるかは社会の価値体系によって異なります。OishiとDienerの研究は、文化的要因が幸福感や社会的意味づけに大きく影響することを示しています[1]。
日本では協調性と集団調和が強調され、個人主張を控えることが美徳とされる傾向があります。Hofstedeの文化次元分析によれば、日本は「集団主義」と「不確実性回避」が高く、他者との調和を重視する文化的傾向が明確に見られます[3]。OECDの調査でも、社会的信頼や結束は高い一方で「自分の考えを自由に表現できる」と感じる割合はOECD平均を下回っています[4]。このような文化環境が、個人の生きづらさや違和感に影響していると考えられます。
エビデンスの検証
社会適応は、認知・情動・社会的要因が複合するプロセスとされます。Carriedoらの研究では、社会的支援、共感性、情動調整の能力が社会適応に寄与することが示されました[5]。また、Sepidkarらの研究では、情動調整が困難な人ほど対人不適応や孤立を経験しやすいことが報告されています[6]。
地域社会のつながりがメンタルヘルスを支えることも、国内外で実証されています。Hamanoらの多階層分析によると、日本の地域社会資本(信頼や互助関係)が高いほど、住民の精神的健康が良好である傾向が確認されました[7]。この結果は、孤立が必ずしも個人の弱さではなく、社会的ネットワークの希薄さに起因する可能性を示しています。
一方で、日本社会には精神疾患や逸脱行動に対するスティグマ(偏見)が強く残っており、Andoらのレビューは「本人の努力不足」と結びつける傾向が依然根強いと報告しています[8]。この構造的偏見が、「生きづらさ」を個人の問題に還元してしまう一因となっています。
反証・限界・異説
社会不適応を「感性の豊かさ」として肯定的に語ることには、慎重さも必要です。心理学的には、社会的適応困難がうつ病や発達特性などの支援を要する状態と重なる場合が少なくありません。Teoの研究では、「ひきこもり」現象が文化的背景だけでなく、心理的・家族的要因の複合によって起きることが示されています[9]。したがって、不適応を単に「社会への鋭い感受性」として美化することは避けるべきです。
また、哲学的対話や内省の実践は有効であっても、それだけで社会制度や偏見を変えることはできません。WHOの『世界メンタルヘルス報告書』は、包摂的社会を実現するためには、教育・福祉・地域支援が統合された包括的政策が不可欠であると述べています[10]。
実務・政策・生活への含意
教育現場で注目される「哲学対話(Philosophy for Children)」は、固定された正解を求めず、子ども同士が問いを共有し考えを深める営みです。DanielやCamらによるメタ分析では、哲学対話プログラムが思考力や共感性の向上だけでなく、教室における心理的安全性と参加意識を高める効果があることが示されています[11]。この実践は、生徒が「自分の考えを言ってよい」と感じられる文化を育て、教育における包摂性を高めます。
社会政策の観点では、個人の孤立を「問題」として処理するのではなく、社会全体が多様な生き方を包み込むことが必要です。地域コミュニティやNPOの対話的支援、働き方や学びの柔軟化など、制度的包摂を進める取り組みが求められます。社会資本を高める施策は、メンタルヘルス改善と社会的信頼の回復を同時に促します。
まとめ:何が事実として残るか
「社会に馴染めない」という感覚は、個人の欠陥ではなく、社会文化的構造と個人の価値観の間に生じるズレの表れとして理解できます。実証研究は、社会的支援・情動調整・信頼関係が適応を促進し、スティグマや同調圧力がそれを妨げることを示しています。哲学的対話や教育実践は、個人がそのズレを言葉にし、他者と共有する力を育む有効な方法です。生きづらさを感じる人を「普通から外れた存在」とせず、社会の感性の一部として尊重する――その視点が、多様性を受け入れる成熟社会への道筋を示しています。
本記事の事実主張は、本文の[番号]と文末の「出典一覧」を対応させて検証可能としています。
出典一覧
- Oishi, S., & Diener, E.(2014)『Residents of poor nations have a greater sense of meaning in life than residents of wealthy nations』 Perspectives on Psychological Science, 9(6), 426–437. 公式ページ
- I. Orlenko(2019)『Philosophical Underpinnings of the Concept of Social Maladjustment in the Modern World』 Philosophical and Methodological Challenges of the Study of Modern Society. 公式PDF
- Hofstede Insights(2023)『Country Comparison: Japan』 Hofstede Cultural Dimensions. 公式ページ
- OECD(2021)『How’s Life? Measuring Well-being』 OECD Publishing. 公式ページ
- N. Carriedo et al.(2024)『Cognitive, emotional, and social factors promoting social adaptation』 Frontiers in Psychology. 公式ページ
- Y. Sepidkar et al.(2024)『The mediating role of difficulty in emotion regulation in social maladjustment』 Heliyon. 公式PDF
- T. Hamano et al.(2010)『Social Capital and Mental Health in Japan: A Multilevel Analysis』 PLoS ONE. 公式ページ
- S. Ando et al.(2013)『Review of mental-health-related stigma in Japan』 Journal of Mental Health. 公式ページ
- A. R. Teo(2010)『Hikikomori: A Japanese Culture-Bound Syndrome of Social Withdrawal』 Journal of Nervous and Mental Disease. 公式PDF
- World Health Organization(2023)『World Mental Health Report: Transforming Mental Health for All』 WHO Publishing. 公式ページ
- Daniel, M., & Cam, P.(2021)『Philosophy for Children and the development of critical and social skills: A meta-analytic review』 Educational Philosophy and Theory, 53(10), 1054–1072. 公式ページ