国家はもういらない?苫米地氏が描く「ルソー型AI民主主義」の未来
出典:YouTube「日本に国家は必要ない! 苫米地英人が提唱する『新たな民主主義のカタチ』」
「国家はいらない」という衝撃の提言
この講義で苫米地氏は、冒頭から次のように断言する。
「日本に“国家”は必要ない──それが結論です」
この発言は、単なる反体制的なスローガンではない。背景には、社会契約説、自然権、近代憲法思想、AIテクノロジー、そして哲学者ルソーの直接民主主義論など、複雑で重厚な理論体系が横たわっている。
本記事では、苫米地氏の主張を順に紐解きながら、「なぜ国家が不要とされるのか」「その代わりに何が機能するのか」を明らかにしていく。
国家の起源と社会契約の本質
人類史の大半は、国家という枠組みとは無縁だった。アリの群れやイルカの群れには国家がない。苫米地氏によれば、国家とは近代以降の人工的制度であり、人類にとって本質的に必要不可欠な存在ではないという。
その根拠となるのが「社会契約説」である。ここでは、主に以下の3人の思想が整理される。
苫米地氏はこのうち、ロックの建前とホッブズ的現実のギャップを指摘しつつ、最終的にはルソー的モデルを採用すべきだと語る。
日本国憲法は誰のものか?
この文脈で特に重要なのが「自然権」という概念である。苫米地氏によれば、生まれながらにして人が持つべき権利は、水や空気、通信、移動の自由、冷暖房の快適性にまで拡張されるべきだという。
「2025年の日本では、100Mbpsの通信速度は、清潔な水と同じくらい“基本的人権”である」
その一方で、現在の日本では「国家が自然権を“与えている”」かのような言説が憲法改正草案に現れており、これは本末転倒であり、極めて危険な思想だと警鐘を鳴らしている。
議員が“自己実現”する国会の病
苫米地氏の批判は、国民の代表であるはずの国会議員にも及ぶ。
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国会議員が「自己実現の場」として国政を利用している
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政治が公共意思(general will)ではなく、特殊意思(particular will)によって歪められている
このような政治風土を、苫米地氏は「猿や犬猫の本能と同じレベル」と痛烈に批判する。ルソーの言葉を借りれば、「公務は個人の私欲から切り離されねばならない」という主張である。
株式会社化された国家構想
では、国家を否定したあとに何が残るのか。苫米地氏は、驚くべき制度設計を提示する。
◉ 官庁をすべて「株式会社化」する
◉ 公共サービスは「株主優待」
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医療費、電気代、水道、インターネット代すべてがタダ
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国民は“株主優待”としてそれらを受け取る
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外国人は議決権のない株式を購入することで、同様のサービスを一部享受できる
この構想は、従来の国家観とは一線を画す。税金ではなく、配当と優待による統治。それは資本主義と民主主義の“融合型モデル”とも言える。
国家権力の唯一の例外:外交
ただし、全てが民営化されるわけではない。苫米地氏は次のように区分する。
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外交(平時)=外務省株式会社が担当
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外交(有事)=防衛株式会社が担当
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これ以外の機能は原則「AI+民営化」で十分代替可能
警察もまた民営化可能であり、セコムやALSOKのような企業が、民事契約に基づいて治安維持を担う。スピード違反も、道路株式会社との契約違反として罰金処理される、という徹底ぶりである。
AIが個人の意思決定を代行する未来
前編では、国家の株式会社化とルソー思想に基づく直接民主主義の構想が紹介された。では実際、1億人以上の国民が日々の政治判断をリアルタイムで行えるのか──という疑問が浮かぶ。
ここで登場するのが、個人のAIエージェント(プロキシAI)である。
「代表はいらない。1億人分のAIが同時に判断を下せば、それこそ“全人民による意思決定”です」
このモデルは、ルソーの直接民主主義を、テクノロジーによって現代に再実装する構想だと言える。
刑法は不要、民法だけの社会へ
苫米地氏はさらに大胆な提言を行う。それは、
「刑法はいらない。すべて“民法処理”でいい」
というものである。
苫米地氏の主張によれば、現代社会における刑法とは、国家が“暴力を独占”するための道具であり、本質的には国民を罰するための制度だという。しかし、すべての人間がAIによって行動ログを透明に管理され、犯罪リスクが限りなく低くなる社会においては、国家による処罰は不要となる。
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スピード違反 → 道路株式会社との契約違反=違約金請求(民事)
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傷害や窃盗 → 当事者間の損害賠償(民事)とリスク契約に基づく補償
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殺人や重大事件 → 事前にAIが予兆検知し、予防的介入が可能
このように、従来の“刑罰と収容”という発想から、“契約と予防”への転換が制度的に可能になるというのだ。
教育と医療は“配当型インフラ”へ
教育や医療もまた、株式会社制とAIによって完全に再構築できると苫米地氏は主張する。
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教育:オンライン+AI個別最適化で、教師という職業は不要。人格形成も含めた“育成型AI”が子どもを導く。
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医療:診断・治療の多くはAIで可能に。健康データは個人所有、医療行為は必要に応じた契約とサービス。
すべての運営母体は株式会社であり、国民はその株主。つまり、教育や医療を使えば使うほど、コストではなく「配当が回る仕組み」になっている。
この構造によって、公共サービスは“税金で補填するコスト”ではなく、“株主優待”としてのインセンティブへと変貌する。
ベーシックインカムではなく「自動配当」
よく語られるBI(ベーシックインカム)についても、苫米地氏の提案は少し異なる。
「税金ではなく、配当で生活がまかなえる社会。これが正しいBIです」
国家機能を担う各株式会社が黒字を出せば、その配当が株主(国民)に支払われる。それに加えて、
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ユーティリティ(電気・水・通信・交通)はすべて“株主優待”で無料
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食料や住居も特定基準内で無償提供
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余剰分は売買可能、需要調整により生活の柔軟性を維持
つまり、「お金のために働く」という動機がなくても、人は文化・芸術・技術など“本当にやりたいこと”に集中できる社会構造が構築される。
国家をやめることで“人間”が始まる
このような未来構想は、非現実的にも響くが、苫米地氏の視座は一貫している。
「国家という装置は、個人の可能性と自由を制限している。その限界が来ている」
AI・ブロックチェーン・エネルギー分散・ロボティクスなどの発展によって、中央集権や国家主権は“時代遅れ”の制度になりつつある。これからは、情報の主権を個人に取り戻す時代だと苫米地氏は断言する。
おわりに──AIと哲学が出会うとき、民主主義は進化する
この講義で展開された構想は、「国家否定論」のように見えて、実際にはルソーの理想をAIという技術で実現しようとする“構成的提案”である。
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国家がなくても秩序は維持できる
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民主主義はAIによって深化しうる
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個人が自分の情報空間を統治できる時代が始まる
このような苫米地流の「AI民主主義」は、単なる理想論ではなく、既存制度の限界を超える“次の形”を模索する試みだといえる。
出典:YouTube「日本に国家は必要ない! 苫米地英人が提唱する『新たな民主主義のカタチ』」
https://youtu.be/FhAkRHow6mk