「マッドサイエンティスト」は本当に狂っていたのか?
「人体実験」と聞くと、戦時中の非人道的な研究や、モラルの欠片もないマッドサイエンティストのイメージが頭をよぎります。ですが、今回ご紹介するのは、そうした陰惨な物語ではありません。むしろ、自らの肉体を実験台とし、未来の医学のために命を削った医師たちの、驚くべき挑戦の記録なのです。
岡田斗司夫さんが解説する書籍『世にも奇妙な人体実験の歴史(Smoking Ears and Screaming Teeth)』には、そうした「善良だけど危険な医師たち」が登場します。中でも特に圧倒的な存在感を放つのが、18世紀イギリスに実在した解剖医ジョン・ハンターです。彼の生き様は、単なる科学者の枠を超え、後のサスペンス文学の原型にまで影響を及ぼしたと言われています。
この記事では、ハンターの驚くべき生涯を追いながら、当時のヨーロッパ医学界の実態、そして彼が与えた衝撃を深掘りしていきたいと思います。
医者が病気を悪化させる時代
18世紀のヨーロッパは「科学の時代」と呼ばれますが、例外がひとつありました。それが医学です。
当時の西洋医学は、なんと紀元2世紀のローマ時代の学者・ガレノスの学説に支配されていました。彼は生涯一度も人間を解剖せず、動物の臓器を観察して「これが人間の構造だ」と決めつけていたのです。しかも、その理論は古代ギリシャの「四体液説」(人間の体は血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁のバランスで構成されている)を元にしていました。
そのため、18世紀のヨーロッパの医者たちは、病気になると「体液のバランスが崩れた」と考え、血を抜いたり、毒のような薬を投与したりしていたのです。内科医の仕事は、効かない薬を出すこと。外科医(当時は床屋と同一視されていた)は、血を抜いたり切ったりするのが仕事。現代の我々から見れば、治療というより拷問に近い行為が日常的に行われていたのです。
こうした時代に登場したのが、ジョン・ハンター。彼は自らの体を使って、医学の常識を根底から覆していきました。
自分で性病を実験する――人体実験の極地
ハンターの代表的な実験の一つに、「性病の自己感染実験」があります。
彼は当時流行していた2種類の性病――淋病と梅毒――が、同じ病気の進行段階なのか、それとも全く別の病気なのかを調べるため、自分の性器にナイフで傷をつけ、淋病患者の膿を塗り込むという自傷実験を行いました。
そしてしばらく観察を続けると、なんと梅毒の症状が出現。「淋病が進行すると梅毒になる」という自説を証明できたと歓喜しますが、これは大きな誤解でした。実際には、その患者が偶然にも両方の性病にかかっていただけだったのです。
こうしてハンターは、生涯治療法のなかった梅毒に苦しむことになりますが、彼にとってそれは「科学的証明の代償」でしかなかったようです。
死体をめぐる戦争と解剖の革命
ハンターの天才性は、解剖学にも現れました。兄ウィリアム・ハンターの下で解剖助手としてスタートした彼は、次第にその才能を発揮し、ついにはロンドン最大の解剖標本コレクターとなります。
しかし当時、合法的に解剖用の死体を手に入れるのは極めて難しい状況でした。なぜなら、法律で許されていたのは死刑囚の死体のみ。しかも妊婦は死刑にならないという法律があったため、特に妊娠中の女性の解剖はほぼ不可能とされていたのです。
ここでジョン・ハンターは非合法な手段を取ります。墓を暴いて死体を盗む「リサレクショニスト(死体泥棒)」の世界に飛び込み、自ら最大の窃盗団のボスにまで上り詰めたのです。
彼の指導のもと、ロンドンの墓場の半数以上が「中身が空」だったという報告すらあります。そして彼の天才的な解剖技術によって、妊娠初期から臨月までの子宮内の胎児の成長段階を詳細に記した図解が完成し、後の医学を飛躍的に前進させることになりました。
「ジキルとハイド」は彼から生まれた?
ジョン・ハンターの解剖屋敷は、まさに「善と悪」「神聖と猟奇」が同居する空間でした。表通り側には社交界の紳士淑女を迎えるサロン。裏通り側からは、血まみれの解剖器具とともに死体が運び込まれる。その間には講義室と博物館があり、死と知が隣り合う場となっていたのです。
この屋敷の構造と、ジョン・ハンターという人物の二面性こそが、後にロバート・ルイス・スティーヴンソンが書いた『ジキル博士とハイド氏』のモデルになったとされています。
昼は上品な学者、夜は死体泥棒のボス。薬品で人格が切り替わるジキルとハイドの物語が、人間の内なる善悪の葛藤を描いた近代心理ホラーの原点だとすれば、その元になったジョン・ハンターもまた、「医学と狂気のはざま」にいた人物だと言えるでしょう。
巨人チャールズ・バーンの骨――倫理と執念の境界線
ハンターの執念は、死体の蒐集にとどまりません。彼が執着した中で最も象徴的なのが、アイルランドの巨人チャールズ・バーンです。身長2.3メートルの彼は当時、見世物小屋で大人気の存在でしたが、熱心なカトリック教徒であったため、死後は絶対に解剖されたくないと考えていました。
バーンは死の直前、自身の遺体を海に沈めてくれと友人たちに頼みます。しかしハンターは彼の死を予見し、子どもたちを使って尾行させ、葬儀屋を買収して死体をすり替えます。バーンの遺体は煮沸され、骨格標本にされました。
これは今でもロンドンのハンター博物館に展示されています。近年、この標本の展示を続けるべきかという倫理的な議論もありましたが、医学史的価値から継続展示が決定されました。ここでも、「知のための行為は許されるのか?」という普遍的な問いが突きつけられています。
子どもたちの歯で進化した歯科医術
解剖学だけでなく、ハンターは近代歯科学の礎も築きました。
彼は、「新鮮な歯を抜いた直後に他人に移植すれば、成功率が高い」という仮説を立てました。これを証明するため、貧困層の子どもたちを集め、彼らの健康な歯を抜いて金持ちの患者に植え付けるという実験的歯科治療を始めたのです。
広告を見て列をなす子どもたちは、1本抜かれるたびにわずかな小銭を受け取って帰っていきました。現代の価値観からすれば非道ともいえる行為ですが、当時の貧困家庭にとっては数少ない現金収入の手段でもありました。
こうした試行錯誤が、現代の「歯の移植技術」や「インプラント研究」へとつながっていくのです。善か悪かという単純な分類では語れない「知のコスト」が、ここにはあります。
人体実験の果てに――医学の進歩と社会的代償
ジョン・ハンターが率いた死体入手ルートは、倫理のタガを外した暴走とも言えます。その行き過ぎがついに一線を越え、「人を殺して死体を売る」バークとヘア事件(1828年)を引き起こしました。これを契機に「解剖死体の合法提供制度」が整備され、死体泥棒という闇ビジネスはようやく終焉を迎えます。
このように、ハンターの活動は一面では医療技術の進歩を支えましたが、他方では倫理的な歯止めを取り払う結果も招きました。その功罪は、現在の我々にまで問いを投げかけてきます。
彼が直感的に構築した進化の仮説、死体標本の博物館的展示、徹底した実験主義。それらはダーウィン以前に人間の進化を想起させる展示となり、現代に続く医学教育の基礎を築いたのです。
終わりに:人間の「知」の代償とは何か
ジョン・ハンターの人生を通じて見えてくるのは、「人間が何かを知ろうとするとき、どこまで代償を支払う覚悟があるのか?」という問いです。
彼は自らの身体を実験台にし、違法すれすれの手段で死体を集め、現代医学の夜明けを切り開きました。彼の行為は、現代から見れば不謹慎で、時に犯罪的ですらありますが、その果実は確かに私たちの命を救う技術として受け継がれています。
善意と狂気、倫理と知識。すべてが混在した18世紀の医学革命は、現代の医療制度や倫理観を築く礎となりました。ハンターのような存在がいたからこそ、我々は「医者にかかっても死なない」時代に生きていられるのかもしれません。
それは、ありがたくもあり、背筋の凍るような話でもあるのです。