【要点】
✔ 研究者・有名大学はいらない?という風潮の危険性
✔ 科学や教育の価値は「見えない」から軽視される?
✔ AI時代に人間が学ぶべきものとは?✔ 「見えない知」は社会インフラを支える重要資源
✔ 研究や教育を軽視する風潮はリテラシーの欠如が原因
✔ 科学・医療・AIの基盤は“地味な知識”の積み重ね
✔ 教養は選択制へ、AI時代は“使いこなす知”が鍵
Q:「有名大学も研究者もいなくても困らない」という風潮について、どう思いますか?
A:知が可視化されない社会では、「なくてもいい」が多数派になる
ひろゆき氏は、まず「有名大学も研究者もいなくても困らない」と感じる人たちがアメリカや日本で増えているという現状を紹介します。とくにアメリカでは、ハーバード大学などで研究を支える大学院生の多くが留学生であるにも関わらず、彼らにビザを出さないという方針が出た事例を挙げました。その背景には「研究なんて役に立っているのか分からない」「身近にないものは無価値」という多数派の感覚があるといいます。
この現象をひろゆき氏は、「可視化されないインフラを支える知の軽視」と表現しています。
たとえば、道路や橋、水道、IT基盤などは、博士号を持つような研究者の長年の成果によって成り立っていますが、私たちの生活の中ではそれが意識されることはまずありません。「この道路を設計した人の研究背景が…」なんて考える人は稀です。だからこそ「大学?研究者?なんの役に立ってるの?」という反応になるのです。
この無自覚さは、ある種の豊かさの副作用だとも言えるでしょう。物がありふれ、技術が当然のように提供される社会では、「それがどこから来たのか」を問う動機が消えます。その結果、研究という営みそのものが、目に見えないものとして軽視される傾向にあるのです。
Q:日本社会でも同じような傾向があるのでしょうか?
A:「事実を知ろうとしない人」が多数派に
日本でも同様の現象が見られると、ひろゆき氏は続けます。たとえば「政治家なんかいなくても回るでしょ」という声に対して、彼は「じゃあ予算を誰が通すの?その予算で公務員の給料や災害復旧費用、警察・消防の人件費が動いてるのに?」と現実を突きつけます。
また「税金の恩恵なんて受けてない」という人に対しても、「じゃあ君はどうやって会社まで来たの?道路を使わなかったの?」とツッコミを入れます。
このような「見えない恩恵に気づかない人たち」が、今や社会のマジョリティになりつつあるのです。
そしてこれは「教育の敗北」だと、ひろゆき氏は明言します。
知識を与えるだけでなく、「自分がどういう恩恵を受けているか」「目に見えないものにも価値がある」といった、リテラシー教育こそが重要だとし、それが十分に機能していないからこそ、研究者や政治家などの間接的な存在を「不要」とみなす人が増えてしまったと考察します。
Q:研究者へのリスペクトがないことが問題ですか?
A:昔は「見えないもの」を信じていた。今は「見えない=不要」
興味深いのは、ひろゆき氏が「昔の人は見えないものを“神”と捉えていた」という視点を持ち出す点です。
たとえば雷はかつて神の怒りだとされていたし、治水や農耕も神仏や目に見えない力への信仰に支えられていました。そこには「自分の知っている世界の外に大きなものがある」という前提があった。
ところが現代では、「分からないこと=無意味」「自分に見えない=不要」という論理になりがちです。結果として、学問や研究、思想や哲学といった「即物的ではないもの」は軽んじられる。
この価値観の転換は、ひろゆき氏にとって「社会の劣化の表れ」だと映っているようです。
Q:科学技術の理解も失われているのですか?
A:LEDやAIすら「よくわからないから無価値」にされる時代
ひろゆき氏は、日常生活を支える科学技術の例として、青色LEDや液晶ディスプレイを挙げます。これらはすべて大学発の研究成果です。たとえば青色LEDの発明は、中村修二氏が行った基礎研究の積み重ねによって可能になり、液晶やLEDディスプレイの普及に多大な貢献をしました。
しかし一般の人々は、その恩恵を享受しながら「そんな研究いらない」と思ってしまう。これは単なる無知ではなく、「知識を知識として尊重しない」という社会的態度だとひろゆき氏は分析します。
この話は、AIやチャットGPTなどの先端技術にも当てはまります。便利だから使うけど、その背後の理論や研究、膨大な労力には関心がない。そんな無関心こそが、知のインフラを脅かすと警鐘を鳴らしているのです。
Q:ワクチンや医療の話題にも通じる問題ですね
A:科学的知見とメディアの情報が乖離している
ひろゆき氏は、ワクチンや医療の話題にも切り込みます。
たとえば子宮頸がんワクチン。日本では一時期メディアの報道により接種率が激減し、その結果子宮頸がんの患者数が増加してしまいました。これは科学的知見と世間の空気が乖離した結果です。
オーストラリアなどでは接種率が非常に高く、子宮頸がんの死者数はほぼゼロに近いレベルにまで減っています。それに対して日本では「なんとなく怖い」「なんか悪いことが起きたかも」といった印象論で接種が回避され、結果として救えた命が救えなかった。
これは「見えない因果関係を理解できない」というリテラシーの問題であり、教育の欠落によるものであると、ひろゆき氏は強く批判します。
Q:古典や漢文って、今でも必要ですか?
A:教養としては価値がある。でも、全員が学ぶべきとは限らない
ひろゆき氏は、「古典や漢文をすべての高校生が勉強すべきなのか?」という問いに対して、かなり明確な立場をとっています。
結論から言うと、「全員がやる必要はない」というのが彼の意見です。
もちろん古典や漢文に興味がある人、文学や歴史を専門に学びたい人、あるいは教育者や文化的専門職を目指す人にとって、それらは重要なリソースです。しかし、プログラマーを目指す人、ビジネスパーソンになる人、農業や製造業で働く人が、古典や漢文を共通必修として課せられる意義は薄いと指摘します。
加えて、現代の古典・漢文教育は「現物を読めるようになる」ための教育ではないという問題にも言及します。原典(特に漢文)を実際に読もうとしても、使われているのは繁体字であり、字形や語彙の解釈も現代とは異なるため、実際には読めません。ひろゆき氏はそれを「中途半端な疑似言語にすぎない」とまで評しています。
このような批判を通じて彼が伝えたいのは、「すべての人に同じ教養を強制する教育制度は、合理的ではない」というメッセージなのです。
Q:じゃあ教養って、そもそも何なんですか?
A:いろんな教養がある。選べるようにすべき
ひろゆき氏は、古典や漢文だけを「教養」と特権的にみなす考えに対して、「教養とは多様な知の形式の集合だ」と語ります。
たとえば彼は「音楽史」「キリスト教の聖書の物語」「欧州文学」「プログラミング」「金融や法律」「歴史的建築」「ゲーム文化」など、すべて教養になり得るといいます。
つまり、“教養”とはその時代の社会や人間理解を深めるための知識・経験であり、それが何であるかは一元的には決められません。したがって、「全員が古典と漢文を学ぶべき」という言説は、かえって人間の知的多様性を殺してしまうと指摘します。
Q:AI時代に人間が勉強する意味ってありますか?
A:「知識を使いこなす側」に立つために、学ぶ必要がある
近年のAI技術の発展により、「人間はもう勉強しなくてもいいんじゃないか」という声もあります。特にGPTや画像生成AIの登場により、「AIに任せれば大体何とかなる」と考える風潮が強まっているのも事実です。
これに対してひろゆき氏は、「だからこそ、仕組みを理解する側に回らないとマズい」と警告します。
たとえば、AIに与えるプロンプト(指示文)の構造を理解しているかどうかで、AIが出す回答の質が大きく変わります。あるいは、AIが生み出した答えが「本当かどうか」を判定するためには、やはり基礎知識や論理的思考が不可欠です。
つまり、AIは「道具」であり、「使う側が無知」だと、その出力を誤信してしまう危険性があるのです。
この観点から、ひろゆき氏は「何を学ぶべきか」を問い直す必要があると語ります。古典の文法を機械的に記憶するよりも、「論理の見抜き方」「根拠の取り方」「検証可能性の理解」といったメタ知識をこそ育てるべきだという考え方です。
Q:「科学を否定する人」が増えたのはなぜですか?
A:リテラシー教育の欠如と、成功した福祉社会の副作用
ひろゆき氏は、ワクチン陰謀論や反科学的な言説が広がる理由について、2つの観点から説明します。
1つは「教育の不全」です。これは既に触れたとおり、「因果関係を理解する力」「統計的思考」「科学的反証可能性」などが学校教育で十分に教えられてこなかったことによります。
もう1つは、意外な指摘です。
それは「弱肉強食が止まったこと」です。
つまり、現代の福祉国家では、どんなに合理的でなくても、人間は生き延びることができます。昔は「不合理な判断をすれば滅ぶ」社会だったため、自然と合理性や教育が淘汰圧として機能していました。しかし現在は、非合理な思考をする人も、福祉によって守られる。
これ自体は良いことです。しかしその結果、「不合理でも生き延びられる」という環境が、非合理な思想や言説を許容・拡散してしまう温床になっている、という構造を見落としてはならないと警鐘を鳴らします。
Q:じゃあ日本の教育制度を変えるにはどうしたらいいんですか?
A:「みんな同じことを学ぶ」のではなく、「必要な人が必要なことを学ぶ」に切り替えるべき
ひろゆき氏は、教育制度を「全員が同じ内容を習得し、同じ偏差値で評価される構造」だと批判しています。
古典・漢文もその典型です。「自分が目指す将来像に関係ないことを強制され、しかもその出来で大学合否が決まる」というのは、人生のリソースの無駄遣いになってしまうと語ります。
たとえば、法学部志望の人には論理学や憲法の基礎を、理系志望の人には数学と論理構成を重視すればよい。文学部志望の人が古典に注力するのは理にかなっていますが、全員に一律で課すのは意味がない。
教育とは、「自分がどうなりたいかを選び、それに応じて何を学ぶかをデザインする自由」があって初めて、効率も幸福度も上がるものだとひろゆき氏は主張します。
Q:日本がこれからも没落していくとしたら、どう対処すればいいですか?
A:悲観的になる必要はないが、「無知な多数派の声」に押されない工夫が必要
最後に、ひろゆき氏は「日本社会は今後も教育の非合理性、科学リテラシーの低さによって苦しむ」と断言します。
すでに有力者や知識人の間では、「子どもを海外に出す」「英語教育を早めに始める」「制度に依存しない生き方を選ぶ」といった行動が広がっています。彼自身も「個人で準備しておくしかない」と述べています。
それは「逃げる」という意味ではなく、「制度が改善されるのを待つより、自分と家族を守る方が現実的だ」という判断に近いのです。
この視点から、「有名大学も研究者もいらない」という言説に対して、彼はこう結びます。
「いらないんじゃなくて、いらないと“思えてしまうほど知識の伝わり方が劣化してる”ってことなんですよ。そこに気づけるかどうかが、その人の“知性”なんだと思います。」
まとめ:ひろゆき氏の言説から見える「知の尊重」という思想
このライブ配信でひろゆき氏が繰り返し訴えたのは、「見えないものを大切にする視点」です。
それは、研究者の存在価値かもしれません。税金の恩恵かもしれません。あるいは科学技術の基盤かもしれません。
「目に見えないものこそ社会を支えている」という自覚がなければ、私たちはいつでも「無価値に思えるもの」を排除してしまいかねません。そしてその結果、自分たちの暮らしを支えていた大切なものを、気づかないまま失うことになるのです。